姓名判断とは、人の姓名の字画や発音などを頼りに、その人物の性格や職業適性や恋愛運、結婚運などを鑑定する占いの手法のことである。
文字そのものから読み取れる情報に加え、生年月日や九星、八卦などといった他の占いの要素を組み合わせ、総合的に判断するのが一般的だ。
これは新生児の命名の際に利用されることでよく知られているが、大人があとから運勢を変えるべく改名をするケースも少なくない。とくに、芸能人やスポーツ選手などでは、運気やめぐりあわせを重視する人が多い。
だが、ほかの占いや診断と同様に、姓名判断にも科学的な根拠や合理的で自明な理由が存在するわけではない。
しかしながら、ふだん占いの類を一切信じようとしない者であっても、自分の子どもに名前をつける際、まったく字画を考慮しない日本人はめったにいない。血液型占いや占星術に一喜一憂する者を笑うことはあっても、命名に頭を悩ませている人間を笑うことは失礼にあたる。
こうした事実は、姓名判断が日常レベルにおいて、ほかの占いとは一線を画すものとして重要に扱われていることを示している。
姓名判断は、漢字という、複雑で多様性の高い文字体系が日常的に使用されている文化圏だからこそ成立する占いであるといえる。また、名前に特別な力や意味をもたせようとすること自体が、東アジアに特有の傾向でもある(高貴な人間の名を直接呼ぶことをタブーとする文化や、本名を隠して通称を名乗る文化にこれは顕著である)。ほかの占いにはない権威をこの占いが獲得している背景には、このような事情があることと無関係ではないだろう。
姓名から人物の性格や運気を調べようという試みの歴史は古い。漢字の母国である中国においては、漢字の誕生からほどなくして行われていたとの説もある。ただし、これは現在日本で親しまれている姓名判断とはまったく考えかたの異なるものである。かつての中国では字のもつ意味から姓名を判断するのが主流であった。
画数から姓名判断をする手法は、日本独自のものだ。今では中国に逆輸入されてもいる。
日本式の姓名判断の歴史はまだ浅い。江戸時代のほとんどの庶民に姓はなかったからである。貴族と武士を除けば、特例的に許された一部の者にしか姓を名乗ることはできなかった。吉凶の判断以前に、姓があるということだけで特権的なことだったのである。
それが1870年、平民苗字許容令により庶民にも姓を名乗ることが認められる。さらに1875年には、戸籍管理の必要性から平民苗字必称義務令が発せられ、姓が義務づけられる。こうした時代背景にあって、名前を取り巻く状況は大きく変わっていく。よりよい名前を名乗りたいという欲求が発生したのである。姓名判断が発展する土台はこうして完成した。
明治時代、易者の林文嶺と言語学者の永杜鷹堂が共同で体系化し、「姓名の真理」としてまとめたものが日本式姓名判断の源流である。しかしこれはきわめて専門性の高い難解な理論書であり、大衆に普及することはなかった。
昭和期にこれを簡略化し、一般に普及させたのが、二人の門下生であった熊崎健翁だ。現在主流となっている手法は、画数を基準とすることも吉凶を1~81の数字で分けていることも含め、例外なくこの熊崎式の影響下にあるといえる。熊崎の功績は甚大である。
他方で、簡略化しすぎてしまった弊害として、本来の姓名判断がもっていたはずの真理に迫ろうとする部分も損なわれてしまったとの指摘もある。
ほかにも桑野燿齊による桑野式や、そこにカバラの要素を組み込んだ吉本式など、多くの流派が存在しており、現在も新しい流派が続々と誕生している。
占星術やタロットなどがそうであるように、姓名判断においても流派によって具体的な鑑定方法はそれぞれ異なる。
しかしながら、字画から以下のような五運を導き出したうえで判断をくだすという手法は概ね共通であるといえる。
【天格】
天格は姓の総画数のことである。祖格ともいう。姓は基本的に祖先から与えられたものであるため、宿命的な要素をあらわしているといえる。
この運だけをもって吉凶の判断はできないが、ほかの運とも大きくかかわってくる重要な指標である。結婚などによって姓が変われば、当然この天格も変わることになるため、結婚運とも関わってくる。
【人格】
人格は、姓の最後の文字と、名の最初の文字の画数を合計したもの。主格ともいう。
姓と名の両方の画数の組み合わせできまるため、姓名判断の五運の中核をなすものといえる。また、合計が同じ画数である場合も、その内訳によって判断が異なってくる。
これは、名前の内側であることから内面をあらわす運とされている。しかし性格は社交性ともかかわってくるものであるため、仕事運や家庭運といった部分にも影響を及ぼす。
【地格】
地格は名の総画数のこと。これは、改名など特殊な場合をのぞき、結婚によって変化がなく一生ついて回る運である。生まれると同時に授かるものが名前であるため、才能や適職といった部分に関係がある。
また、人格が内面をあらわすのに対し、地格は外面、つまり他人からみた自分自身の印象をあらわしているといえる。
【外格】
外格は、総格から人格を引いた画数である。すなわじ名前の外側の文字の合計画数であり、おもに人間関係をあらわす。
人間関係は社会生活においてきわめて大きな比重を占める要素であるため、青年期以降の人生の発展に影響をもたらす。また、人間関係とは鏡でもある。よりよい人間関係を築くことは自分自身をより磨くことでもある。
【総格】
姓名の総画数。これも、この要素単体では吉凶にかかわってこないが、ほかの運と組み合わせることで人生の転機や運勢の変わり目をみることができる。
これらのうち四運だけを採用したり、これに伏運などの別の要素を加えたりなど、バリエーションは多数存在するが、画数の数えかたはほぼ類似している。
にもかかわらず、鑑定者によって解釈が異なってくるのは、どの数字を吉数・凶数とするかの設定の差による部分のが大きい。一般的には奇数が吉数で偶数が凶数となる傾向にある。しかし例外もあるため一概には断定できない。この設定と解釈法こそが、各流派および鑑定者ごとの特徴となる肝の部分であるといえるだろう。
しかしながら、基準となる漢字の画数も、必ずしもその数えかたに統一的な見解があるわけではない。
漢字の基本形は、1716年に完成した中国の『康煕字典』という漢字字典を基準とすることが原則となっている。だが、日本においては20世紀以降独自の簡略化がすすんでおり、原形からはだいぶ形状が変わってしまっているものも多い。いわゆる旧字体と新字体の発生である。
この扱いは非常に難しい問題である。「文字のもつ命運は本来の形にこそ宿っているのだから、旧字体に直してから画数を数えるべきだ」という考えがある一方で(熊崎式など)、「日常生活において実際に使われているのは新字体なのだから、その形で計算しなければ実態にそぐわず意味をもたない」とする見解もある(桑野式など)。また、「沢」と「澤」、「辺」と「邊」のように、双方の字体が日常的に明確に区別されて共存しているケースもあり、画数の数えかたはその扱いによって大きく変わってきてしまうのだ。
より慎重になる必要があるのは、部首の画数である。
たとえば(こざとへん/おおざと)という部首は、日本では三画だと学校で教えられているが、中国においては二画の部首として扱われている。どちらの説を採るかによって、この(こざとへん/おおざと)が使用されている文字(常用漢字だけでも約40文字)はすべて画数が変わってしまうのである。
また、(しんにょう/しんにゅう)や(くさかんむり)にも、画数の異なる字体もあり、やはりどちらで計算するか見解が分かれる。
さらに、(りっしんべん)や(しめすへん)のように、本来は別の形状であったもの(それぞれ元の形は「心」と「示」)が変形して部首になっているものも多い。この場合、両者を区別するか元の形に直したうえで数えるかでも画数が変わってくる。
ほかにも、ひらがなは、漢字の草書に由来するため、画数は何通りもの数えかたがある。
こうした扱いは姓名判断の流派によって異なるため、みてもらう相手によって自身の名前の画数が違うということも起こりうるのである。当然結果も大きく変わってくる。ある流派では非常によい画数であるにもかかわらず、ほかの流派では正反対に最悪の画数である可能性もある。
あくまでも、姓名判断も占いの一種であり、鑑定者の解釈による振れ幅があることは強く認識しておくべきだろう。盲目的に信じてしまってはよくない結果になりかねない。占いの結果を活用するのは自分自身なのである。