真霊論-悟り

悟り

「悟り」とはサンスクリット語の「bodhi」(ボーディ)の訳であり、「菩提」、「開眼」、「開悟」、「成道」、「修証」などともいう。
本来はこれは宗教用語であり、煩悩を断ち切り真理に目覚めた状態のことをいった。これが転じて、知らなかったことに気づいたり感づいたりすることも、日常会話では「悟った」という表現をされることが多い。
また、日本で一般的にガウタマ・シッダールタ(釈迦牟尼)のことを指す「仏陀」という言葉は、本来は「buddha」(ブッダ)の当て字であり、悟りを開いた者のことである。

宗教ごとの「悟り」の解釈

▼仏教
仏教における悟りは、「迷い」の反対語である。
俗世を生きる人間の言動には、つねに煩悩にもとづく迷いが生じている。これを断ち切り、智慧によって解脱することことそが仏教の目的だとされている。
原初的な仏教においては、あらゆる修行は悟りを開くそのためにだけおこなわれている。
初期の仏教における真理は、「諸行無常」と「諸法無我」という二つの言葉に象徴されている。
諸行無常とは、この世のあらゆるものはすべて移ろい、いつか滅びるという意味である。もうひとつの諸法無我は、「我」の存在を否定する思想のことだ。
よって諸行無常・諸法無我の真理を悟った先には、言語や思考は介在しない。分析によってものごとを捉えようとすることもまた、俗世的な煩悩のひとつだからである。また、輪廻転生することももうない。輪廻も、生への迷いゆえに生じる現象だからだ。
悟りを開いた心には、ただ静けさだけが存在するのである。この悟りの境地を、「涅槃」(ねはん)と呼ぶ。
なお、釈迦は悟りを開くまでに四つの苦に直面し克服した。これを「四聖諦」といい、一般には省略して「四諦」と呼ばれる。
四つはそれぞれ「苦諦」(くたい=苦という真理)、「集諦」(じったい=苦の原因という真理)、「滅諦」(めったい=苦の滅という真理)、「道諦」(どうたい=苦の滅を実現する道という真理)のことを指し、この先に解脱が存在するのである。
一方、大乗仏教においては、悟りは固定された状態のことを指さない。安住できる悟りは名ばかりのものであり、信仰の活動をしつづけることこそに悟りの真の意味を求めているからである。これは、釈迦がそのような人生を送ったことに重ね、それを理想像として想定していることによる。
このように利他的な悟りのことを、自らのためだけに悟りを開いた(と大乗教典がしている)「声聞」や「縁覚」と差別化し、「正覚」という。正覚は究極最高の境地であると位置づけられている。

▼キリスト教
キリスト教では、「神を知る」という言葉が悟りにほぼ対応する。
キリスト教においては、神は信者ひとりひとりのなかに存在するものとされているためである。真摯な信仰をつづけることによって、内なる神の存在を認識し、一体感を得ることができる。この境地を「神を知る」と称するわけである。
これは、知識によって神を理解することとは一線を画するものである。三位一体の位格である聖霊の啓示によって神の言葉を聞くことで、知識を越えた「体験」としての神を知ることができるのである。
また、キリスト教の異端であるグノーシス派は、その「グノーシス」という言葉そのものが悟りを意味する言葉である。

▼ヒンドゥー教
ヒンドゥー教のプロトタイプであるヴェーダにおいては、「ニルヴァーナ」が涅槃に対応する。悟りを得る際にはまばゆい光に包まれることから、悟りは「光明」とも呼ばれる。
なお古代インドでは、宗教と科学が非常に密接に存在しており、明確な区別がなかった。そのため、悟りについても得るための科学が研究されつづけており、その成果はウニパシャッドなどに記述されているのが残されている。
ニルヴァーナには三つの段階が存在するとされる。
いずれのニルヴァーナも、到達したことによって意識を失うようなことはないのだが、しかし、その最高のものであるマハパリ・ニルヴァーナに入るには、現世の肉体を持ったままでは難しいといわれる。
よって、このとき精神が肉体を離れることになるが、これは「死」とはいわない。「入滅」や「涅槃に入る」といった表現は、本来はこのマハパリ・ニルヴァーナに入った状態のことを指したのであった。

▼その他の宗教
宗教全体として悟りの概念が共通している宗教は、上記がおもなものであるが、上記においても宗派によって複数の悟りの捉えかたがある。また、上記以外の宗教についても、部分的に悟りに通じる概念が存在することも多い。
たとえばイスラム神秘主義では、内なる神との一体化を目的としている。これはキリスト教の考えかたと非常に近いといえよう。
また、欧米におけるニューエイジ宗教においても、近年は悟りの概念を取り入れた例が目立つ。こうした人々からすれば、イエス・キリストも悟りを開いた人物だと考えられることがある。
ほかにも、幸福の科学のような新興宗教においても悟りの概念は採用されている。無執着の境地に辿り着き、主エル・カンターレの光と一体になることが、悟りだとされる。

「悟り」と「解脱」の違い

ここまでの解説にも登場しているが、「解脱」という用語は悟りとしばしば混同される。
実際に、ほぼ同じような意味で用いられていることが多いが、厳密には異なっている。
解脱とは、肉体的にも精神的に迷いから脱却した状態のことを指す。これはたしかに、悟りを得るためには必須である。しかし、悟りは解脱だけで成立しているものではないのである。
悟りとは、「法身」、「般若」、「解脱」の三つからなっており、これを仏の三徳と呼ぶ。すなわち、この三徳を兼ね備えた者のことを仏と呼ぶのである。
法身とは、仏を仏たらしめている絶対的な真理のことだ。一方、般若とは仏の智慧のことである。
いわば、解脱は悟りを得るためのプロセスのひとつでしかないのだ。

オカルト用語としての「サトリ」

オカルトの分野では、カタカナ表記の「サトリ」という言葉がよく用いられる。これは、他人の心の内を読む能力および、その能力をもつ超能力者のことを指す。
この原形は、飛騨や美濃につたわる「覚」(さとり)という妖怪の存在である。この妖怪への言及は多くの文献に残っている。
また、これがさらに転じて、他人に自分の思っていることを知られてしまう「サトラレ」という現象もよく報告される。同名の映画によって一躍有名になったこの現象は、統合失調症の一種だと説明されることが多い。
これらで用いられる「サトる」という動詞が宗教的な「悟り」と関係しているという史実的な証拠はないが、目に見えない真理に近接するという点で、なんらかの関連はあるかもしれない。

「悟り」という言葉の危険性と注意点

ここまで、さまざまな視点から「悟り」という用語について述べてきた。しかしながら、この言葉は宗教によって捉えかたが異なるし、また、同一宗教であっても宗派の違いでまったく違う解釈をしているケースもある。そのため、悟りについて一義的に定義することは不可能といってよいのが現状だ。
定義が曖昧であるゆえに、濫用されることも多い。
悟りが開けるときには神秘体験を伴うことが多いが、神秘体験そのものが真理ではないことに注意されたい。
悪徳宗教が勧誘の際にインスタントな神秘体験を見せることは常套手段である。しかし実際には、それは手品のようなものに過ぎないことがほとんどである。たとえば、オウム真理教のケースのように違法薬物を用いることさえある。だが、神秘体験は副作用でしかないということをしっかりと肝に銘じておけば、目先の神秘体験にだまされることはないだろう。
悟りという言葉に触れたときは、その都度コンテクストを精確に掴み、そのうえで意味を読み取ろうとする姿勢が求められるのである。

《さ~そ》の心霊知識