真霊論-座敷わらし(座敷童子)

座敷わらし(座敷童子)

座敷わらしとは、民家の座敷や蔵などに居着いていると伝えられる精霊のことである。
地方・文化によって神の化身だとされることもあれば、妖怪として扱われることもある。いずれにせよ、座敷わらしを見た者には幸運が訪れるといわれており、その存在は概ね好意的に受け止められている。守護霊の一種だともいえる。
昔話の題材としてもしばしば取り上げられる。さらに、新しい時代の創作物においても、座敷わらしおよびそれを下敷きにした類似の存在が描かれる頻度は高く、ほとんどの日本人はなんらかの形で座敷わらしのエピソードに触れたことがあるといえるだろう。
すなわち、座敷わらしはきわめてポピュラーな民間伝承なのである。

座敷わらしの生態と特徴

座敷わらしの「わらし」は、漢字では「童子」と表記される。このことからも窺えるように、座敷わらしは一般的に子どもである。おかっぱ頭をした五歳から六歳の子どもだとされることが多い。
性別は男女双方のケースがある。男児であれば黒っぽい色の着物をまとっており、女児であれば赤いちゃんちゃんこを着ている場合がよくみられる。
もっとも、精霊であるという性質上、正確な姿を確認し把握することは困難であるため、性別不詳なケースも目立つ。
座敷わらしの特徴としては、たいへんいたずら好きな性格であることがよく語られる。夜中に物音を立てて住人の眠りを妨げたり、寝ている布団の上にまたがったり、留守中の家に足跡を残したりといったいたずらは、昔話のなかでも頻繁に紹介されている。
また、もうひとつの特徴としては、極度の力持ちであることも知られる。いたずらしているところをうまく捕まえたとしても、その体の小ささに反して、座敷わらしは信じがたいほどの力を発揮する。その強さは、大の大人が数人がかりでも負けてしまうほどだという。よほど知恵を働かせなければ、座敷わらしを捕まえることはできない。
その一方で、子どもとは子ども同士仲よく遊ぶという報告もある。伝承によっては、その姿が大人には見えないというバリエーションも存在する。このとき、子どもの言う人数と大人の数えた人数との差分が生ずるため、ホラーやミステリーの一種としても語られがちだ。
一貫して、座敷わらしと大人との相性は、慣れるまではあまりよくないようである。

座敷わらしは幸福の象徴である

ひとたび座敷わらしが居着いていることがわかると、奥座敷で手厚くもてなすことが多い。座敷わらしが福の神のように、幸運を運ぶ存在であることは、伝承中でも周知の事実とされているようである。
反対に、住んでいた座敷わらしが出て行ってしまうと、その家は急速に衰えていく。
民俗学の第一人者である柳田國男の『遠野物語』では、座敷わらしが去った途端に一家が食中毒に見舞われたエピソードも紹介されている。
こうした伝承は、八百万の神を擁する日本の文化と深い関係のある考えかただといえるだろう。
わが国では古代より、人知を越えた存在をすべて神として扱い、擬人化することで理解できる範囲へと近づけてきた。座敷わらしも、幸福という抽象的で実態のない概念を擬人化した存在だと捉えることが可能である。
わかりやすい形にすることで、人々はそれを崇めたり感謝したりすることができる。
いわば、座敷わらしも、幸福の形を可視化するための人間の知恵であったかもしれない。
座敷わらしのはたらくいたずらが、わかりやすく痕跡を残すいたずらばかりであることにも注目したい。この事実は、座敷わらしが「見つけてもらいたい」という心理をもっているためだ、という解釈も可能だろう。
すなわち、幸福はつねに人々のもとに訪れようとしているにもかかわらず、機を逸してしまうがゆえに幸福を逃してしまうのだということへのメタファーなのだ。
こうしたテーマは、文学や哲学などのモチーフとされることも多く、座敷わらしのエピソードがきわめて寓話的性質をもった民間伝承であることがわかる。

伝承としての座敷わらし

座敷わらしを発見したという報告は、岩手県を中心にみられる。また、青森県や宮城県といった東北各県からも報告があがっている。
地方によって、「座敷童」、「座敷童衆」、「座敷ぼっこ」、「御蔵ボッコ」、「座敷小僧」、「カラコワラシ」などなど、さまざまな呼ばれかたをしているが、外観や年齢などを除けば基本的な設定はほとんど共通である。
また、静岡県の「座敷坊主」や徳島県の「アカシャグマ」、山梨県の「お倉坊主」など、直接的な繋がりはないとみられるが類似したものも存在する。ほかにも、解釈によっては北海道の「アイヌカイセイ」や沖縄県の「アカガンター」といった妖怪たちも、座敷わらしと同類に括られることもある。
すなわち、広義では座敷わらしは全国共通の存在だということもできよう。
幸福を追求しようという欲望が人類共通のものであることを考えれば、同時多発的にこうした伝承が発生していることはなんら不思議なことではない。
なお、東北地方のなかにあっても秋田県だけは、座敷わらしの伝承が著しく少ない。これは、秋田には三吉鬼という妖怪がいて、ほかの妖怪を近寄らせないためだといわれている。
また、説によっては、座敷わらしは幼くして亡くなった浮遊霊だとされる場合もある。
このとき、居着く家は子孫の家となる。すなわち、座敷わらしをもてなすということは、先祖供養なのだと考えることが可能なのだ。しっかりと先祖供養をすることが日々の安定と幸福に繋がることはよく知られている。
この考えを採用すれば、座敷わらしにまつわる設定や逸話のほとんどに、一定の説明がつくことになる。

もし座敷わらしと遭遇してしまったら

もしあなたが座敷わらしに遭遇したら、そのときは、やはり厚遇することが望ましいだろう。座敷わらしはけっしてあなたに対して愛想よくは接しないかもしれないが、たしかにあなたやあなたの家族のもとに幸福をもたらしてくれるはずだ。
伝承によって細かい事情は異なるため、理想としては、接待の方法は地方ごとの風習にのっとることが求められる。地域の生き字引のような老人がいれば、そうした方々に尋ねるのがベストだ。
ただし気をつけるべきなのは、悪徳霊能者にかかってしまうと、法外な相談料を請求されるおそれもあることである。あるいは、よい霊と悪霊との区別もできない生半可な霊能者だと、せっかくの座敷わらしを追い出されてしまう可能性もある。信頼できる相手がいないのであれば、細かい作法にまでこだわる必要はない。
あなたのできる範囲で、できるかぎりの接待を心がけることが重要なのである。
お気づきの人もいるだろう。この対処法は、先祖供養のそれとまったく同じである。
一度みつけてしまうと、もう逃がさないようにしたいと考えることも当然だろう。しかし、無理やり縛り付けるようなことは厳禁である。これは愚かな人間が最もやってしまいがちな失敗といえる。座敷わらしが先祖霊だと考えれば、おのずとその扱いも理解できるはずだ。
過剰な干渉はせず、日常を変化させることもなく、毎日の生活の範囲でごく自然に座敷わらしと接すればよいのである。

座敷わらしと緑風荘

「緑風荘(りょくふうそう)」は岩手県二戸市金田一の温泉郷にある旅館で、座敷わらしが出ることで全国的に有名になった。
しかし、2009年10月4日午後8時半頃に発生した火災により、中庭の座敷わらしを祀った祠のみを残して全焼してしまった。
座敷わらしが出る客間として人気が高かった「槐(えんじゅ)の間」は、2009年の時点ですでに2011年12月31日まで予約は一杯で、2012年1月1日以降の予約受付は、2011年3月7日から開始される予定になっていた。
緑風荘における座敷わらしの目撃例は、「槐の間」だけでなく、館内いたるところでの目撃例がある。
これは「座敷わらしのほうから人を選ぶ」ことが理由だそうで、必ずしも「槐の間」だけに現われると限定されていたわけではなかったようである。
ただ「槐の間」には、過去にこの部屋に宿泊した人々が置いていった座敷わらしへのお供え物等が多数飾られており、座敷わらしを巡る一種の歴史博物館的な趣向を感じさせる部屋であることも、予約が殺到する理由だったようである。
緑風荘を経営していたご主人によれば、座敷わらしは金田一温泉一帯が遊び場らしく、「時々ほかの宿でも目撃されていると聞いたことがある」という。

●火事直前・当日は座敷わらしの出現頻度が高かった
2009年10月4日午後8時半頃に発生した火災により、「緑風荘」の歴史はひとまず幕を降ろされたことになる。
超常現象研究家の山口敏太郎氏の調査によると、火事の直前に座敷わらしの目撃件数が増えていたそうである。
2009年8月、火事の一ヶ月前に家族連れが宿泊し、子供だけなぜか夜中に目が覚めたという。
その子供がトイレにいくと、「見知らぬ子供がいたので、しばらくジャンケンをした」そうである。
ちなみにその家族は「槐の間」ではない部屋の宿泊客である。
9月には、霊感の強い女性が宿泊し、「夜中に目が覚めると子供が立っていた」そうである。
火事の当日、旅館の主人が近所の人から聞いた話では、「火事の当日、燃える様子を見ていると、見知らぬ子供が敷地内にある亀麿神社に逃げ込むのが見えた」というものがあったそうである。

●緑風荘の座敷わらし
伝承によると、1300年代(南北朝時代)に、戦に破れた南朝の武将が、奈良から東京都あきる野市(五日市町:この際に苗字を五日市にする)を経由して、南部藩(金田一)に落ち延びたとする。
当時、その武将には6歳と4歳の男の子がおり、金田一までたどり着くと同時に兄の亀麿(かめまろ)は病にかかり死去したそうである。
その亀麿が死の床で「末代まで家を守り続ける」と言い残し、以来、亀麿の霊が奥座敷「槐の間」に棲みついたとされている。
座敷わらしに出会えると「驚くほどの幸運に恵まれ男は出世し、女は玉の輿に乗る」という噂が広まった。
ちなみに、この緑風荘を運営していたのは、武将の子孫である五日市家だが、近年「ツキを呼ぶ魔法の言葉ブーム」を作った五日市剛氏も縁戚の1人である。
こうした縁戚の1人の男性は、緑風荘で座敷わらしと片足飛びで遊んだり、鬼ごっこをした経験があるそうである。
鬼ごっこをして追いかけたところ、「座敷わらしはふすまの中に消えていき、自分は思い切りふすまにぶつかってしまった」のだそうだ。

●有名になった経緯
1955年に開業された「緑風荘」であるが、全国的に有名となる最初のきっかけは1971年だった。
この年、作家の三浦哲郎が緑風荘の座敷わらしをテーマに児童小説『ユタとふしぎな仲間たち』を発表した。
この作品はのちに劇団四季がミュージカル化して有名になり、同時に緑風荘の名前も全国に知られることになる。
さらに1980年代には、怪奇、心霊、超常現象をテーマとしたテレビ番組がブームとなり、緑風荘も再三取り上げられ、芸能人や著名人等も宿泊するようになった。

●宿泊した著名人とご利益
「緑風荘」人気に拍車をかけたのは、なんといっても歴代の宿泊者のそうそうたる顔ぶれであろう。
歴代の総理経験者、日本を代表する大企業のトップ、ストリートミュージシャンから大ヒットメーカーへと転進した歌手など、多士済々である。
また、それらの宿泊者は各業界での成功者でもあり、あたかもその成功が「座敷わらしのご利益」として、他の人々には写ったのかもしれない。
以下にそのリストを記す。
(過去の宿泊者リスト)※ウィキペディアより転載
原敬(第19代内閣総理大臣) - 東北遊説の際に宿泊。その後、総理大臣就任。
米内光政(第37代内閣総理大臣) - 宿泊後に総理大臣就任。海軍大臣や聯合艦隊司令長官を歴任。
福田赳夫(第67代内閣総理大臣) - 総理大臣に就任。福田康夫(第91代)も訪れたと言われている。
田子一民(第33代衆議院議長) - 座敷わらしに出会い政治家として出世。
三船久蔵(武道家) -「槐の間」で座敷わらしと組み合いあしらわれたという。
本田宗一郎(本田技研工業創業者) - バイクでツーリング中に宿泊。その後事業拡大。
松下幸之助(パナソニック創業者) - 事業を世界規模に展開。
稲盛和夫(実業家) - 宿泊後に事業建て直しに成功。
金田一京助(作家) - 学者・作家として出世する。緑風荘に度々訪れ五日市家と交流があった。
三浦哲郎(作家) - 緑風荘で感じたインスピレーションによりヒット作品を世に出す。
遠藤周作(作家)- 館内で座敷わらしに遭遇し、その出会いを作品に描いている。
水木しげる(漫画家)- 「槐の間」での座敷わらしとの出会いを雑誌で詳細に述べている。
つのだじろう(心霊研究家)- 緑風荘に奉納した座敷わらしの絵に描かれた眼球が動いたことで話題に。
水戸泉政人(元大相撲力士)- 「槐の間」宿泊後、1992年7月場所幕内優勝。
ゆず(音楽グループ) - ストリートミュージシャンからメジャーデビュー。
岩手県立福岡高等学校女子ソフトボール部 - 槐の間で優勝祈願。全国優勝を果たす。

《さ~そ》の心霊知識