「成仏」とは仏教用語で、まさに読んで字の如しで「仏に成る」ということである。
この「仏」とは本来、「仏=仏教の開祖釈迦、仏陀」を意味し、さらに「仏のような境地に成れよ=煩悩を捨て悟りを得よ」という教えである。
現在の日本においては、「仏様=死者」というイメージが定着し、一般的に成仏というと主に以下の二つのことだと思う人が多いようである。
ひとつは「死ぬこと」の別表現で「成仏した」等といった表現。
もうひとつは、死後において「霊界で安らかに暮らすこと」を意味し、「これでやっと成仏できる」などと表現される。
これら二つの使い方は、もはや日本においては改変できるものではないかもしれないが、本来の意味合いとは大きくかけ離れてしまっている。
日本では人の死後、仏教による葬送をする人が多い。
この際に僧はお経を読むが、これはたしかに「死者を成仏させるため」の行為である。
しかしその意味合いは、「死者の意識に智慧を授けて悟らせ、仏の境地へと導く」のが目的である。
密教の究極目標は「即身成仏」と呼ばれる。
これは「生きているうちに悟りを得て、仏の心で生きること」を意味する。
ところが多くの日本人は、成仏=死というイメージが強すぎるため、「即身成仏」を「即身仏(修行者が瞑想を続けて絶命し、そのままミイラになること)」と混同してしまうのである。
「成仏」=仏陀の悟りの境地、仏の心になる、であり、生死とは関係なく人間が到達すべき心の状態を意味するのである。
成仏以外にも、誤解・誤用されやすい仏教用語がいくつかある。
以下にその主なものを記そう。
「成仏」=悟りを得て、仏陀の境地に至り、その究極目標は、死後においては、輪廻のサイクルからの「解脱」を経て「涅槃(ねはん)」に至ることである。
「解脱」(げだつ)=解脱という行為を「悟り」と誤解している人が多い。
解脱とは、輪廻転生のサイクルからの解脱であり、もう肉体を伴った人間として生まれ変わらない、ということを意味する。
「悟り」=悟りとは「煩悩」を完全にコントロール下に置き、人間の本質、宇宙の真理・本質を理解できた境地を意味する言葉である。
「涅槃」(ねはん)=かつて某タレントが自死の際の遺書に「涅槃で待つ」と書いたが、涅槃とはいわゆる霊界ではない。
涅槃は、解脱した者のみが到達できると教えられる、高次霊の住む世界である。
「阿羅漢」(あらはん)=同名洋画の影響からか、武勇者をイメージしがちだが、初期仏教における「阿羅漢」とは、生きながらにして成仏、すなわち仏の境地に達した者を意味する。
「菩薩」(ぼさつ)=菩薩というと、仏陀同様に天界から人々を守護している霊、というイメージが強い。
しかし大乗仏教における本来の「菩薩」は、「成仏をめざして修行する者」を指す言葉である。
自らも修行中ではあるが、人々と共に歩み、教えに導くということで、庶民の信仰の対象となった。
では「成仏」(=仏の境地に至る)するためにはどうすればいいのか?
大乗仏教には「六波羅蜜(ろくはらみつ)」という教えがある。
これは成仏を目指す菩薩(修行者)が修める日々の行動指針である。
「六度(ろくど)」とも呼ばれる。
波羅蜜とは、サンスクリット語のパーラミターのことで、「究竟(くきょう)する」「彼岸に至る」「渡る」という意味である。
「究竟」は、真理を究め尽くし、仏道修行を完成した境地のことをいう。
●六波羅蜜
1)布施(ふせ)
現代では布施というと、「お金を渡すこと」とイメージされがちだが仏教の本来の布施とは、一般的には第一に「他人に物を施すこと」、第二に「僧に財物を施すこと」である。さらに詳細に以下の3つに分かれる。
財施・・・財の布施。他人にお金や物を施すこと。募金活動など。
身施・・・身の布施。他人に身体を使った労力を施すこと。清掃奉仕など。
法施・・・教えの布施。他人に仏の教えを施すこと。説法すること。
この3つの布施の中で最も尊いとされるのが法施である。
2)持戒(じかい)
持戒とは、身を慎むということ。 いかに自分に能力、才能等があったとしても、いつも質素で謙虚で、驕(おご)らずいること。
3)忍辱(にんにく)
忍辱とは、他に対して寛容であり、どんな困難をも耐え忍ぶということである。
4)精進(しょうじん)
精進とは、たゆまず純粋に努力することをいう。
一心不乱に継続して努力することこそが精進の本来の意味である。
5)禅定(ぜんじょう)
禅定とは、どんなことが起こっても迷ったり、動揺したりせず、静かな精神を保ち、 常に真理に心が定まっている状態をいう。
6)智慧(ちえ)
智慧とは、真理を見極め、真理によって判断、処理できる能力。 仏教徒が目指す最終到達点である、「仏の智慧」ということである。