心霊学とは、霊的な世界に関する事象全般の研究を総称する言葉である。
ただし、大学などアカデミズム分野において「心霊学」という正式な呼称・学問分野があるわけではない。
(現在のアカデミズムにおいては、超能力と一部心霊もテーマにした学問として「超心理学」がある。)
またどこかに心霊学研究の中枢機関が存在する、というものでもない。
従って、個々の研究者、グループ等それぞれが、最適な表現として「心霊学」と呼称しているのである。
「学」と付いている要因は、大きく二つのある。
ひとつは、心霊学を研究する科学者を含むインテリ層のプライド的な意味合いである。
つまり、可能な限りに正当性のある科学的考察や、論理性のある方法論において、霊的な世界に関する研究をするという、その研究姿勢を強調した表現と考えればいいだろう。
もうひとつは、宗教性あるいは宗教色とは分離させ、宗教団体への勧誘などの目的ではなく、純粋に霊的な世界を探究する、という意味合いを強めているのである。
日本においては、1923(大正12)年に浅野和三郎(1874-1937)によって創立された「心霊科学研究会」(詳細は後述)の心霊科学という言葉から転じて「心霊学」が生まれたと考えることもできる。
一方で、「スピリチュアリズム」(心霊主義)という言葉は、19世紀に英国を中心に、欧米や日本でも流行した一種のムーブメントを指す言葉である。
心霊主義運動では、主に人間の霊魂の実在性を、交霊術などを中心にしながら追及し、死後の世界に関する情報収集や、霊的な世界の解明を試みた。
また、霊魂の存在や霊的な世界を信じ、何かしらの研究・実践を行う者を「心霊主義者」と呼んだ。
このスピリチュアルリズムの一般的な日本語訳は「心霊主義」であるが、「心霊学」をその訳語とする研究者もいる。
「心霊学」という言葉の創始者を明確にするのは困難だが、近代において心霊研究を「心霊科学」として、科学的な考察の対象にした人物といえば、浅野和三郎(1874-1937)である。
英語教師だった浅野は、東京帝国大学の学生の時に、小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)が英文学担当教師として赴任したことから教えを受け、それが心霊研究の下地になった。
しかし、本格的な心霊研究へと傾倒する転機は、息子の病気であった。
1915年(大正4年)、三男が原因不明の熱病に冒された。
医者に見せても回復しなかったが、とある女行者によって快癒した事から、心霊研究に傾倒する。
1916年(大正5年)海軍機関学校の教師を退官し、当時もっとも実践的な心霊研究をしていた、出口王仁三郎率いる「大本」(当時の正式名称は「皇道大本」)に入信する。
「大本」において心霊現象体験を重ねるも、弾圧から逃れるために教団を離れ、1923年(大正12年)3月、「心霊科学研究会」を創設する。
この際、一緒に「大本」を離れた人物には「生長の家」創始者の谷口雅春もいた。
浅野は、もち前の英語力を活かし、1928年(昭和3年)、ロンドンで開かれた、「第三回国際スピリチュアリスト会議(世界神霊大会)」に出席し、「近代日本における神霊主義」と題した英語の講演をする。
さらに欧米で、霊媒や降霊会を訪ね、心霊関連の文献等を多数持ち帰るなど、心霊研究に没頭する。
さらに、和三郎の妻・多慶子は、三男の病気が治った翌年から霊能力が発現し、1929年(昭和4年)に次男死をきっかけに「霊言(トランス・トーク)」を行うようになる。
浅野自身は主に、霊界の研究に多くの時間を割き、守護霊研究のパイオニアとして、「交霊会」を通じて守護霊・指導霊の存在を繰り返しアピールした。
また、他の実績としては、東京帝国大学心理学科教授であった福来友吉博士による「念写」の研究発表などがあげられる。
1937(昭和12)年、浅野は逝去し、東京心霊科学協会も第二次大戦中に活動休止となるが、終戦後の1946(昭和21)年に「日本心霊科学協会」として再興され、1949(昭和24)年に財団法人の認可が下り現在に至る。
福来友吉博士(1869年-1952年)は、東京帝国大学助教授時代に、東京帝国大学を舞台に超能力の実験をマスコミに公開した人物として知られている。
福来博士は、心霊や超能力の解明に向け、理論研究よりもまず実践的な能力自体の物理的解明に取り組んだ。
日本各地で異能者(現代で言う超能力者)発掘にいそしみ、「千里眼(透視)」「念写」等の能力を持つとされる、御船千鶴子・長尾郁子・高橋貞子・三田光一といった人物たちの能力を研究した。
しかし公開実験は思うような成果に至らず、。1913年(大正2年)、『透視と念写』を出版するのと歩調を合わせて、東京帝国大学を追放(公的には休職)された。
東京帝国大学退職後は、主に精神論、禅研究などへとシフトし、1921年(大正10年)、真言宗立宣真高等女学校長、1926年(大正15年)から1940年(昭和15年)まで高野山大学教授を歴任する。
その後仙台市青葉区台原に「福来心理学研究所」を設立して独自の研究を進める。
しかし、公開実験での失態により、マスコミを始め既に世間の信用を失った福来は、一般の注目を浴びる事なくその生涯を閉じた。
スウェーデンのバルト帝国出身の科学者・政治家・神秘主義思想家、エマヌエル・スヴェーデンボリ(1688年-1772年 エマニュエル・スウェーデンボルグという表記もある)は、近代における世界の心霊学の父であろう。
ダヴィンチのような絵こその残していないが、スヴェーデンボリはまさに18世紀のダヴィンチであり、当時 ヨーロッパで最っとも影響力を持った科学者だった。
精通した学問は、数学・物理学・天文学・宇宙科学・鉱物学・化学・冶金学・解剖学・生理学・地質学・自然史学・結晶学などで、特に結晶学についてはスヴェーデンボリが創始者である。
そんな著名科学者だったスヴェーデンボリは1745年、イエス・キリストにかかわる霊的体験が始まり、以後神秘主義的な重要な著作物を当初匿名で、続いて本名で多量に出版する。
中でも著書『霊界日記』は注目された。
というのも、この著書では克明な霊界の構造が記されたからである。
それが可能となった理由は、スヴェーデンボリが生きながらにして霊界を訪れていた、つまり、幽体離脱(アストラル・トリップ)によるものだったとされている。
また、宇宙人の存在も明かした。
例えば、月に存在する宇宙人は、月の大気が薄いため、胸部では無く腹腔部に溜めた空気によって言葉を発するなどとした。
スヴェーデンボリが著書に記した内容の真贋はさておき、その存在が後世の心霊学に与えた影響は大きい、ということだけは事実であろう。