「怨霊」とは、何かしらの「怨念」を持つ死者の霊で、その「怨念が死後も生きていて祟る」と恐れられる存在である。
「怨念」になるほどの強い感情であることから、多くの場合、死因や死の動機に関係することが怨念の要因となることが多い。
特に政治家、皇族、権力者などの志ある者が、政変や陰謀などで地位を奪われ「志半ばで死んだ場合」はその遺恨が怨念となり、「怨霊」となることが多いとされる。
「日本三大怨霊」とされる、菅原道真、平将門、崇徳天皇などがこのケースの典型例である。
また、四谷怪談の「お岩さん」(江戸時代に田宮家で実際に起こったとされる妻のお岩にまつわる一連の事件)のように、理不尽な形で殺害された人の「無念の思い」も怨霊になる可能性があると考えられている。
「日本三大怨霊」とされるのは菅原道真、平将門、崇徳天皇である。
いずれも「御霊信仰」の対象としてその怨念を鎮めるために神社にて祀り、神格化されている。
●菅原道真の祟りとは
菅原道真は、醍醐天皇の父である宇多天皇に重用され、右大臣に昇進し右大将を兼任、従二位まで昇進した。
しかし、藤原氏や他の貴族の謀略により、大宰府に左遷され、子供四名も流刑にされ、失意の内に死ぬ。
菅原道真の死後、京には異変が相次ぎ、醍醐天皇の皇子が次々に病死。
さらには朝議中の清涼殿が落雷を受け、朝廷要人に多くの死傷者が出た。
これらを道真の祟りであると恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行い、道真の子供たちも流罪を解かれて京に呼び戻された。
さらに、菅原道真を「天神(雷神)と学問の神」として太宰府天満宮(福岡県太宰府市)や北野天満宮(京都市上京区)に祀ることで、怨念を鎮めた。
本来「宮」のつく神社は、天皇を祀る神社を意味する。
このことは、いかに当時の朝廷が菅原道真の怨念・祟りを恐れたかを代弁している。
●平将門の首塚とその祟り
平将門は、築土神社(東京都千代田区)や神田明神(東京都千代田区)に祀られている。下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争に端を発し、関東諸国の国衙を襲い、印鑰を奪った事から朝廷から敵と見なされた。
京都の朝廷に対抗して独自に天皇に即位し、新皇を名乗り朝廷からの独立国建設を目指したが、藤原秀郷、平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。
朝廷に対する謀反の見せしめとして、最も屈辱的な「さらし首」の刑に処せられた。
伝承では、さらされた3日目の夜、平将門の首は夜空に舞い上がり、故郷に向かって飛んで行ったとされ、数カ所に落ちたとされる。
その落ちたとされ場所が「首塚」(将門塚)である。
平将門の祟りは、他の怨霊と異なり、その祟りが取りざたされたのは近代になってからである。
大正12年(1923年)、関東大震災によって「首塚」(将門塚)と隣接した大蔵省庁舎は被害を受けた。
その修復の際に、この機会にと「首塚」の発掘調査が行われ、石室の取り壊し等が行われたのである。
その上に仮庁舎が建てられたが、その後に奇怪な事件が続いて起こる。
大蔵省内の役人と工事関係者の間に、死人、怪我人が絶えず、当時の大蔵大臣・早速整爾氏を始め、わずか2年の間に営繕局工務部長・矢橋工学博士以下14名が亡くなり、武田政務次官・荒川事務官以下、非常に多くの怪我人が出たのである。
それもなぜか足に負傷する者が多く、「将門塚を壊した祟り」であるという噂が流れ人々は戦慄した。
●崇徳天皇の祟り
崇徳上皇は「日本一の大魔縁となり『皇を取って民となし民を皇となさん』」(怨霊となって天皇家の権力を失墜させる)と、死ぬ前から自ら怨霊になることを決意して死んでいった上皇である。
保元の乱で敗れ、捕らえられ、流刑となった崇徳上皇は、讃岐の地で失意の日々を送る。しかし改心し、崇徳はこの地で保元の乱による死者の霊に奉納するため、3年がかりで190巻に及ぶ写経をした。
その写経を寺に納めて欲しいと送ったところ、「呪詛」(呪い)がかかっているに違いないと、朝廷はこれを拒否し返本したのである。
これにより、崇徳上皇は怨念を抱いたまま、崩御することになる。
崇徳天皇の死後、すぐに武士である平氏が権力を振るうがその間に大火事が起こり、末期には叛乱が相次ぎ、更には養和の飢饉が起こる。
そして平家の都落ち後の木曾義仲による暴虐と、京には凶事が連続した。
やがて源平争乱を経て鎌倉幕府が成立、承久の乱で後鳥羽上皇を流刑に処されると、朝廷ではいよいよ崇徳の祟りが起こったと恐れたと言う。
その天皇家が再び歴史の表舞台に登場するのは、700年の時を経た明治時代である。
この時、明治天皇は、崇徳の祟りが再び復活するのを恐れ、明治政府によって京都市内に白峰神宮が建てられ祀ることで怨念を鎮めたとされている。