呪術宗教家から実業家へ
現代における陰陽師について触れる前に、江戸時代あたりの陰陽師の様子について触れておこう。その方が、陰陽師が近世においてどのような状況に追い込まれていたかが分かるからである。
江戸時代に入ると、宮廷陰陽師、法師陰陽師、民間陰陽師のすべての陰陽師は、旧安倍氏の土御門家の支配下に置かれる。この江戸幕府の陰陽師活動の放任政策は、もはや政治の場は陰陽師や陰陽道を必要としなくなった、ということの意志表示でもあった。
つまり、陰陽師はかつてのように、真剣な呪術合戦に相克しながら国や天皇を守ることもなく、法師陰陽師と技量を競って研磨する必要性もなくなっていたのである。もちろん、庶民相手に暦を販売し、必要に応じてお祓いや占いを行うことはしている。
また、陰陽師は能などの江戸庶民芸能の格好の題材であり庶民の人気者でもあった。しかしそこにはかつての呪術宗教家たる面影はなく、むしろ、風流人であり実業家的な側面が色濃くなっていたのである。
その実業家ぶりを少し紹介しよう。土御門家は全国の陰陽師に認可を与える鑑札の発行権を所有していた。この許認可ビジネスは他にも鉱山関係など、さまざまな職業分野に渡った。さらには、領内通貨の発行主になり、街道においては通行料徴収などで経済力は莫大になる。
このように江戸時代において、陰陽師宗家の土御門家がすでに、陰陽師業以外の部分で実業家化し多忙を極めていたという歴史がある。このことは、肝心の陰陽寮における陰陽道の叡智の蓄積と、陰陽師の秘儀・秘術の継承が、事実上、室町時代末期あたりで終焉してしまっていたということを物語っているのではないだろうか。
謎の陰陽師集団「上原(かんばら)大夫」
明治時代に陰陽師と陰陽道は排斥され、活動さえも許されなかった。土御門家はその後、「天社土御門神道本庁」となるが、もはや陰陽師の公認機関ではない。『陰陽師─安倍晴明』(荒俣宏著・集英社新書)には著者のこんな記述がある。
「天社土御門神道本庁におられる藤田義仁さんにおうかがいすると、土御門公認の陰陽師という形式は、もはや廃止されており、またそのような機能も果たしていない、という」。
このことは明治以降、現在に至るまで、陰陽師の正当な育成機関も、その能力を認定する機関が日本にはないという証左である。
しかし荒俣宏著の同著には、昭和の時代にも土御門家の陰陽師たちが活動をしていたことを記している。それが現在の岡山県総社市上原(かんばら)近隣に住んだ、「上原(かんばら)大夫」と呼ばれる集団である。
同著によれば昭和22年ごろまで、この地で陰陽師村とでも言うべき集落を作り、人々のためにさまざまな陰陽道の術を使っていたようだ。今ではその名残として墓石が残るだけのようだが、多くの墓石には「天文博士」という肩書きが掘られているという。天文博士とは、かつて陰陽寮にあった官職で、安倍晴明の陰陽寮における最終経歴でもある。
昭和の初期時代には、太鼓を叩きながらの祈祷が人気を呼び、心身を病んだ人たちが大勢集まっていたそうだ。地元の古記録『吉備温故秘録』には、18世紀か19世紀ごろに安倍晴明の末孫らを中心にこの地に住み始めたことが記されていると、荒俣氏は記す。
さて、この「かんばら」の由来に関して荒俣氏は「通説では神祓い(かみばらい)に由来している」という説を支持している。しかし本稿は別の説を提案する。
これは「迦波羅(かっばーら)」と「漢波羅(かんぱら)」に由来するものだと思われる。「迦波羅」とは、呪術・妖術の秘儀であり、俗に「裏・陰陽道に属す教え」(つまり封印された教え)とされる。これを身に付けた、あるいはその教えを知る者は「漢波羅(かんぱら)」と呼ばれたようである。この迦波羅は、一説には神道の奥義ともされているが、そのカッバーラという読み方からすぐに想起されるように、これはユダヤ教の神秘思想「カバラ」のことであると考えられる。
「迦波羅」の伝来は秘史であり、それがいつかは定かではないが、仮説としては、聖徳太子の側近だった秦氏がもたらさせた「景教」(古代キリスト教ネストリウス派)の一部だとする推論もある。また、空海は唐時代にキリスト教と接触しているが、この際に「迦波羅」を密教の中に取り込んでいた可能性もあるだろう。いずれにせよ、奈良時代の修験道の開祖、役小角はすでに「迦波羅」を身につけた「漢波羅」だったという説もあり、「迦波羅」はかなり古い時代から伝来していた可能性はあるのだ。
もしこの「上原」の由来が「迦波羅」もしくは「漢波羅」にあるとすれば、謎の陰陽師集団「上原大夫」の人たちは、陰陽道の封印されていた奥義にも精通していた集団だった可能性は多いにある。しかしその真相は、継承者が途絶えた今となっては永遠の謎である。
高知県香美市の「いざなぎ流と大夫」
高知県香美市に伝承されている独自の民間信仰である「いざなぎ流」には、陰陽道と陰陽師の呪術の名残が多分に残されている。いざなぎ流を簡単に解説すると、「いざなぎ様」を始めとする諸神とのコンタクトを計り、祭祀を執り行い、独自の占術によって吉凶判断や病気治療などに活用するのである。これらを執り行う神職は「大夫」と呼ばれる。
陰陽師という言葉が使われていないにもかかわらず、「現代の陰陽師」という表現が多数散見されるのは、「式神」と同様の呪術の伝承があるからである。
いざなぎ流における式神は「式王子」と呼ばれている。この見えざる聖霊、式王子を大夫が使役する様が、まさに現代の陰陽師だというわけである。ちなみにいざなぎ流には現在も数名の大夫がいるが、その職務は「家神・氏神の祭祀」、「祈祷」、「弓祈祷。米占い」である。かつて村に存在した大夫が残した、超自然的な式王子を使役しての呪詛のエピソードは残されているものの、その術を継承し実践する大夫は存在していない。
いざなぎ流が陰陽道・陰陽師の末裔か否かに関しては諸説ある。というのも、いざなぎ流には修験道や神道、仏教との関係性も多分に見られるからである。四国であるだけに空海の密教思想とも無関係ではないであろうことから、さまざまな流派の秘教的な習合がいざなぎ流の基幹思想にはあると考えられる。
以上、江戸時代から昭和の時代までを見てきても、陰陽師の主な活動は、「祭祀」、「祈祷」、「方位鑑定」、「易断」の4分野に集約されている。従って平成時代においても、多くの陰陽道由来の「自称の陰陽師」は、これらを活動基盤にしている。主に以下の分野である。
「祈祷」=病気平癒・商売繁盛・合格祈願・夫婦和合・家内安全・安産祈願・厄除け開運など。
「方位鑑定」=家相・地相・移転方位など。
「易断」=転職・受験・結婚・病気・開業・事業経営・家庭問題・その他の悩み相談など。
ここであえて「自称」と記したのは、もはや陰陽寮や土御門家という陰陽師認証機関が無い現代においては、その能力の有無・高低に関わらず、すべての陰陽師が「自称」ということになるからである。
では、「式神」に代表されるような、見えざる聖霊を操る呪術をも駆使する陰陽師はいるのであろうか? その答えは、直接看板を掲げている陰陽師に問い合わせてみる他無いであろう。
しかしこんな例もある。数年前にテレビなどメディアによく出演していた自称陰陽師の「石田千尋(いしだちひろ)」氏の「式神」使役のケースである。
テレビ番組企画で石田氏がとある男性に取り憑いた霊を「浄霊」するシーンを放映していたのだが、こんなやり取りがあった。
男性:(憑依霊の言葉で)「目の前の小さいやつらが目障りなんだよ…」
石田氏:「ああ、それは式神を飛ばしているからさ」
(※筆者の記憶を基に再構成したやり取りです。ニュアンスは間違っていませんが言葉遣いは多少違っていた可能性があること、また、石田氏の能力を推奨する目的の記述ではないことをご了承ください)
もちろんこれは演出構成力に長けた、テレビ番組企画という点を十分に考慮して、差し引いて考えなければいけことも多々あるだろう。しかしもし、これが真実のやり取りであったのなら、石田氏は式神を使役したということになる。事の真相については、本人に直接正すほかない。
平成の自称陰陽師の中で、式神等の呪術面においてもその能力を発揮したというケースは、筆者は残念ながら他に思い当たる例がない。
飛鳥時代から明治までの長い年月、陰日なたになり天皇家を支えてきた陰陽道と、その使い手である陰陽師。これらは一体どこへ消えてしまったのだろうか?
「いいえ、消えていません。じつは、現代までその教えと秘儀は、脈々と継承されているのです」。
こう語るのは筆者の知り合いで封印された歴史に詳しいA氏である。A氏は著述を生業としていないため、仮名を条件にお話を聞かせていただいた。以下はA氏による陰陽師の行方の謎、である。ただし、これが事実か否かは定かではないので、歴史ミステリーとして氏の話を楽しんでいただければ幸いである。
「陰陽師の歴史において、有名なのは安倍晴明であり、重視されがちなのはその後の土御門家ですが、本当は賀茂氏こそ、肝心要の存在です。日本に迦波羅(かっばーら)と漢波羅(かんぱら)を生んだのも賀茂氏です。
陰陽道というのは、迦波羅すなわちカバラ、神道、そして中国の各宗教の習合、つまり西洋と東洋の神秘思想の合体なのです。それはまさに陰陽の太極図のごとく、なのです。そしてその教えの発信拠点が、今も昔も変わらず、賀茂氏の系譜なのです。ではなぜ、江戸期に賀茂氏の名前が陰陽寮から消えて、その後陰陽師の歴史からも消えたのか?
それは表側の役目の終わりを意味しています。陰陽道と陰陽師の歴史の矢面において、賀茂氏の果たす役割は終わり、それを土御門家に一本化しました。そして賀茂氏は裏の陰陽道に専念することになるのです。
裏の陰陽道とは、天皇家と日本国民の安泰を裏からサポートする、ということです。そのための隠密組織が、俗に『八咫烏』などと言われています。陰陽師と陰陽道の歴史は、明治時代で終わりますが、これは諸外国への隠れ蓑的措置と考えていいでしょう。
迦波羅をも網羅して体系化された陰陽道の存在は、開国後の諸外国に対して死守しなければいけない機密でした。つまり、明治以降、陰陽師は地下へもぐり、今でもその教えを限られたメンバーの間で伝承し、祭祀や祈祷、呪術を行っているのです。
ただし、この先、本当の意味での現代の陰陽師が表立って活動をすることはないでしょう。それは、陰陽師の目的は天皇家と日本の安泰であり、陰陽師の能力や陰陽道を広く日本人に普及させることではないからです。
その意味では残念なのですが、ですが、陰陽師と陰陽道の叡智は、今も日本のどこかで脈々と伝承されている。そう考えて間違いないと思います」。