稲荷(いなり)と聞くと多くの人はすぐに「狐」と思うかもしれない。
しかしこれは大きな間違いである。
稲荷とは、その文字にあるように「稲」=稲作、転じて農業・穀物の豊穣を司るものであり、「稲荷神」のことを指すのである。
つまり、稲荷=狐ではない。
ではなぜ稲荷=狐というイメージが定着したのか。
まずひとつには、『日本書紀』に登場する日本武尊(やまとたけるのみこと)を助ける白狐などの影響から、狐もまた神聖な動物であり、「稲荷神」の使いとして使役されているという考え方が定着したことが大きいだろう。
そしてもうひとつは、単純に食文化(お稲荷さん、きつねそば等)からのイメージの定着である。
ということでまずは、稲荷神とその使者である狐は、本来は神聖なものである、という認識を新ためて持つ必要があるだろう。
その一方で、日本では古来より、精神状態の不安定な状態、パニック・錯乱状態、などを「狐憑き」と称して来た。
また、こうした人に害をなす狐の霊とされるエネルギー的な存在は「野狐(やこ)」と呼ばれ、霊能者たちの間では一般的に低級霊の総称とされている。
こうして現在においては、稲荷=狐=祟りの象徴=低級霊・動物霊、というイメージが定着しているようである。
本来、祟りとは、神の法則に対して、エゴ等によって背いた人間が被る罰、である。
つまりいかに祟りが起きようとも、あくまでも善者は神であり、悪者はわがままな人間なのである。
祟りとは「神様ごとをおざなりにするな」という戒めであり、精神性を鍛え直すための教訓事例として考えられていたのが、古代の日本社会だった。
その後時代を経るごとに、文明の進化と共に人間のエゴや傲慢さも助長されていくことになる。
つまり、神霊や人間の魂や霊、自然霊やさらには動物霊等の霊的エネルギーよりも、「とにかく大切なのは生きている生身の人間の豊かさ・暮らしやすさ」という価値観に変遷していくのである。
こうした中で最も都合の良い存在が、稲荷=狐=動物霊=悪さをする低級霊、という存在だったのである。
この図式が成立する背景には、それを後押しした祈祷師たちの存在も大きいだろう。
祈祷したちは、人間を貶める低級霊の存在が多ければ多いほど、祈祷する場が増えて収入増につながるのである。
こうした稲荷=狐=動物霊=悪さをする低級霊に憑依された際の霊章としては、以下のものが挙げられている。
●肩や背中・頭の取れない痛みや重み、金縛り、幻視・幻聴、おかしな言動、訳の分からない事を言う、原因不明の体調不良、イライラして怒りっぽくなる、天ぷら・フライ・肉など油っこい食事を好む、極端に酒量が増える、貧乏ゆすりが激しくなる、人の悪口を言うようになる、などなどである。
その一方で明確になっていないのは、「憑依される原因」である。
普通、祟りの場合、なぜ祟られたかという因果関係はある程度判明されるものである。
例えばある人を殺せば、その死者の霊が祟る、というように。
稲荷=狐の祟りや霊章というのはほとんどの場合、「なぜ憑依したか」の理由は不明のままでそう判断されているのである。
つまり、症状ありきの霊障、ということなのである。
上記に該当する症状が出ると「因果関係はわからないが、狐の祟りである」と、されてしまうのだ。
冷静に考えれば、上記に挙げた症状は、他にもいろんな原因が考えられる症状である。
しかしこれらはまとめて、「稲荷の霊障」となるわけである。
「狐=動物霊=悪さをする低級霊」という論法は、霊感商法を行う上で最も伝統的な常套句である。
なぜなら古来より「狐憑き」という言葉もあったため、日本人は潜在的に「狐の霊は憑依する」と潜在意識に刷り込まれている可能性もあるからだ。
従って霊能者などに相談した際に「あなたには間違いなく低級霊・動物霊が憑依している。除霊をしましょう」と言われれば信じやすい傾向にあるのだ。
もし何かしらの不調が心身にあるのであれば、まずは医学的なチェックを行うことが先決である。
その結果、医学的に問題が認められなければ、正しく霊視鑑定が行える霊能者の元を訪ねるべきである。
くれぐれも動物霊・低級霊という常套句にひっかかって、法外な料金をせしめ取ろうとする霊感商法には注意していただきたい。