飛鳥時代から連綿と続いた陰陽師の歴史の中で、特に名を残した陰陽師たちを紹介する。なお本稿においては、正統的な史書においては陰陽師としての分類ではない人物や、明らかに陰陽師ではない人物も登場する。それらの人物は、「秘史上では重視されている」、もしくは「陰陽師に多大な影響を与えた人物」として参考にしていただけたら幸いである。また宮廷陰陽師の場合は、プロフィールの末尾に陰陽寮における役職履歴がわかっている人物は記しておく。「陰陽頭」とある場合は、陰陽師を束ねる長官に在位したことを示す。
ここでは奈良時代以前の陰陽師黎明期にあたる重要人物を紹介する。この時代は知識と経験を持つ渡来人が活躍した時代であり、日本人の宮廷陰陽師が輩出されるのは平安時代以降である。
■秦河勝(はたのかわかつ、生没年未詳)
秦河勝は、聖徳太子のブレーンとして活躍した豪族である。もちろん、陰陽師であったという記述はどこにもない。しかし、朝鮮半島からの渡来人である秦氏が、神道や陰陽道にもさまざまな影響を与えたことは明らかであり、また、陰陽師の宗家のひとつ「賀茂氏」との関係も深い。従って、陰陽師の歴史において、大きな影響を与えた人物としてここに記しておく。ここからはいわゆる俗説であるが、かつて佐伯好郎(1871年~1965年)によって、「泰氏は日本に景教を持ち込んだ」と指摘された。その後、佐伯は「景教ではない別の思想体系」と修正した。この別の何かの正体が「迦波羅(かっばーら)」、すなわちユダヤ神秘思想のカバラである、とする説もある。つまり、当時神道確立と神社建立に秦河勝が多く関わっていることから、飛鳥時代以降の神道や陰陽道の成立には、多分にカバラの要素が取り込まれているということになる。また陰陽道の秘史として、迦波羅の使い手を「漢波羅(かんぱら)」と呼び、漢波羅とはすなわち、正史における陰陽師とイコールである、という仮説もある。この説が正しければ、その後陰陽師として頭角を現す「賀茂氏」はすべて、泰氏によって迦波羅が授けられた漢波羅である、という見方もできるだろう。また研究者によっては、秦氏を名のならない陰陽師が歴代には多数いたとし、その代表例が後述する蘆屋道満(あしやどうまん)で本名は「秦道満」とする。いかに秦氏が陰陽師と関係が深かったかの証左だとする説もある。
■觀勒(観勒 かんろく 生没年未詳)
陰陽道の正統史において、しばし「陰陽道の開祖」とも言われる。陰陽師の学ぶべき基礎的な素地を百済からもたらせた帰来僧であり、後の陰陽寮の創設に貢献した。602年(推古天皇10年)10月に百済から渡来。日本における初代僧正。天文地理書・元嘉暦の暦本・陰陽五行思想にもとづく遁甲(とんこう)方術・摩登伽経を伝え、聖徳太子をはじめ、選ばれた34名の弟子たちに講じた。『日本書紀 (巻第二十二)』には、「陽胡玉陳(やこのたまふる)」に暦法を、「大友(大伴)村主高聡(おおとものすぐりたかさと)」には天文を、「山背日立(やましろのひたて)」には遁甲方術を授けたと記されている。これらの者たちが陰陽寮の高位官僚となり、その後黎明期の陰陽師育成指導にあたった。元嘉暦の暦本は聖徳太子により604年に官暦として正式に採用された。
■僧旻(そうみん 生年不詳~653年)
百済からの帰来人。608年(推古天皇16年)の小野妹子の第1回遣隋使に随行し、その後24年間にわたって隋に留学して仏教・儒学・陰陽五行思想・天文・易学など広く諸学を修めた。天文に精通し、637年(舒明天皇9年)の流星を天狗の吠声と説き、639年(舒明天皇11年)の彗星出現に際しては飢饉の前触れであると説く。こうした天文観測を通じた占術は、後の陰陽師にとっても重要な職掌となっていく。
■同顕(釈同顕)(どうけん・ほうしどうけん 生没年未詳)
陰陽師たちの基本的なスキルである、式占に長け、主に外交を中心とした政策ブレーンとして活躍する。日本と百済・高句麗との私的外交記録である『日本世記』を著し、現存する書物の中では、初めて「日本」という国号を使用した人物としても知られている。
■隆観(金財)(りゅうかん たから 生没年未詳)
統一新羅からの渡来僧である行心(幸甚)の子。伊豆国へ流罪となり飛騨国の寺に移された父から引継ぎ、後の陰陽師に継承される、祓いの術などを残す。藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の怨霊を鎮めた話(『今昔物語』)が知られている。
平安以降に日本の陰陽家宗家が確立されていく遠景が奈良時代に見られる。ただ、氏姓制度等により、姓が変わるので必ずしも明確化されているわけではない。
■大津首おおつのおびと(大津連首おおつのむらじおびと・生没年未詳)
統一新羅系の渡来人の家系。「大津連意毘登」とも。後の大津宿禰大浦(おおつのすくねおおうら)に至るまで、代々陰陽師として重用されることとなった大津氏の祖である。出家して僧「義法」として活動する一方で、統一新羅へ大使として派遣され、帰国後は朝廷に出仕するため勅命により還俗。大津連首の名を賜わった。従五位上 721年(養老5年)。陰陽頭兼 皇后宮亮(730年頃)。
■吉備真備(きびのまきび695年~775年)
奈良朝の学者・公卿で、日本における陰陽道の先駆者。「陰陽道の祖」と呼ぶ説もある。唐留学中に陰陽道に関わる学問や歴道をはじめ、諸学を習得。帰国後は聖武天皇のもとで、それまで呪禁師(じゅごんし)が所属していた典薬寮を廃止し、陰陽寮との併合を進めた。また、「大衍暦」の採用にも貢献する。「右大臣吉備公傳」、『岡山県通史』などの資料文献によれば、吉備真備は後述する賀茂氏の先祖に当たるとする説もある。藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の怨霊を鎮めた話(今昔物語)が知られ、唐留学の同期生には、阿倍仲麻呂らがいる。正二位・勲二等・右大臣。
■津守通(つもりとおる津守連通・つもりのむらじとおる・生没年未詳)
奈良時代の著名な渡来人系の陰陽師。「津守連道」とも。持統天皇・草壁皇子に重用され、天武朝に大津皇子と石川郎女の密通を、占いによって見破ったことで知られる。その後に大津皇子が詠んだ和歌(万葉集・巻2・第108首)で『大船(おほぶね)の津守が占(うら)に告(の)らむとは兼ねてを知りて我が二人寝し』と、きっと陰陽師には見つかってしまうであろうことを覚悟しながら逢引したのだ、と心中を告白した。養老5(721)年には陰陽方面で賞賜された6人のうち第2番目に挙げられており、また『家伝』下では陰陽の筆頭に掲げられている。
■藤原刷雄(ふじわらのよしお生没年未詳)
752年(天平勝宝4年)藤原清河遣唐使に留学生として随行し禅行を修める。従って、陰陽師というよりも禅定家としての性格が強い。帰国後に従五位下に任じられ、「藤原恵美」朝臣の姓を賜った。764年(天平宝字8年)の恵美押勝の乱に連座して隠岐国に流されたが、772年(宝亀3年)に禅定家としての功績により赦免されて再度従五位下「藤原朝臣」を賜り入京を許され、778年(宝亀9年)に従五位上に叙せられた。陰陽頭 791年(延暦10年)。この藤原氏のケースのように陰陽頭は、かならずしも陰陽師としての実績ではなく、官僚としての統率力を買われていたケースもある。
■大津大浦(おおつのおおうら ~775年)
大津家は代々陰陽師の家系であったとされ、藤原仲麻呂にその類い稀なる才能を見出されて仕える。仲麻呂は自らの政策の吉凶も占わせていたとされるが、仲麻呂が謀反を企図していることを知り、大津大浦は朝廷に密告した。この功績により『恵美押勝の乱』後に大浦は、正七位上から従四位上という破格の昇進を果たし、「連」姓から「宿禰」姓を与えられている。しかし天平神護元(765)年に入り、和気王らと共に叛乱を企んだとして、左兵衛佐(兵部大輔)や美作守といった官職を剥奪され、「宿禰」姓も「連」姓へと戻された上で日向守へ左遷。粟田道麻呂、石川永年も和気王の乱に連座した。この時の最高実力者は道鏡だった。仏僧として祈祷力も持していた道教なだけに、陰陽師を排斥しようとしていた意図のうかがえるケースである。従四位上。陰陽頭兼安芸守(771年)。
■阿倍仲麻呂 あべのなかまろ 698年~770年
奈良時代の遣唐使に留学生として随行し、唐の科挙(上級官吏候補の公務員試験に相当)に合格し、唐の高官職に就く。その後、帰国のチャンスをことごとく逃すことになり、日本への帰国を果たすことはなかった。中国名「朝衡」。後に安倍晴明が自らの祖であると自称しているが、史実は異なるようである。
■役小角(えんのおぬず 生没年未詳)
修験道の開祖であり、民間陰陽師の先駆け的な存在。優婆塞(僧ではない在家の信者)であるため、正しくは法師陰陽師とはいえない。その驚異的な霊力により当時の朝廷陰陽師、天皇を脅かした役小角ほど、謎に満ちた人物はいない。役小角の荒唐無稽とも思われるエピソードの数々は、本やインターネットに数多くの情報があるのでここには記さない。ここでは、陰陽師との繋がりに関して記しておこう。まず、役小角は賀茂役公とされているように、賀茂氏の祖先に当たる人物である。後に賀茂氏は陰陽師宗家として確固たる地位を継承するが、その血筋には役小角の仙人的な素地と、極秘に継承された叡智があったと推察できる。出自に関しても謎が多く、一般的には父を高賀茂間賀介麻呂とし、母を白専とする。しかし、室町時代の書物『修験修要秘決』は、役小角の出自に関して「母には夫なく霊夢を感じて誕生す」と記している。どこかで聞いた話である。そう、聖母マリアの処女懐胎である。もちろんこれが出自とは考えられないが、この一文はとても重要な秘史を露呈させている。なぜイエスの誕生秘話とかぶらせたのか?同書は江戸期に改編されているので単に役小角を神聖化させる意図とも思えるがこんな見方もできる。役小角すなわち賀茂氏には、すでに泰氏経由にて「迦波羅(かっばーら)」、すなわちユダヤ神秘思想のカバラが極秘に伝来していたことを暗示させるひとつの証左であるという見方だ。そこで本稿において役小角とは、陰陽師家となる賀茂氏に、特に呪術・妖術面において正統陰陽道にはない秘伝を託した人物として位置づけておく。
日本人陰陽師が最も活躍し始める時代である。この時代によって、その後陰陽師の系統は賀茂氏、安倍氏(土御門家)が中心となっていく構造が確立される。
■山上朝臣船主(やまのうえのあそみふなぬし・生没年未詳)
謀反罪に2度問われながらもいずれも恩赦された経歴の持ち主。延暦年間に陰陽頭を勤めたという記録のほか、782年(延暦元年)には、氷上真人川継(ひかみのまひとかわつぐ)の謀反(氷上川継の乱)に連座して、隠岐介に左遷(実態は流罪)されたとの記録もある(続日本紀)。平安前期の暦道の大家である大春日朝臣眞野麻呂の祖父に当たるという説もある。陰陽頭兼天文博士 767年(神護景雲元年)~805年(延暦24年)。
■滋岳川人(しげおかのかわひと生年不詳~868年)
文徳・清和天皇の頃に活躍した陰陽師。氏姓は刀岐直のち滋岳朝臣。子に川継・興継がいたとする系図がある。これまでの渡来系陰陽師に変わり、日本人として初めて陰陽師となった「宮廷陰陽師の始祖」であるとする説もある。式占・遁甲の大家で「世要動静教(せようどうせいきょう)」、「指掌宿曜経(ししょうすくようきょう)」、「滋岳新術遁甲書(じがくしんじゅつとんこう)」、「六甲六帖(ろっこうりくじょう)」、「宅肝経(たっかんきょう)」といった多数の書を著したとするが現存するものはない。独自の呪術・方術により、虫害駆除のための祓いの祭や雨乞いの祭祀を行ったとされる。『今昔物語』の「滋岳川人、地神に追はるる語」では、「安倍安仁(あべのやすひと)と滋岳川人が過ちを犯して地神(つちのかみ)を怒らせて追われるが、川人が得意の隠形の術で身を隠し、助かった」というエピソードが残っている。官位は従五位上・陰陽頭(874年)。
■弓削是雄(ゆげのこれお生没年不詳)
清和・宇多天皇の頃に活躍した陰陽師。滋丘川人の弟子。怪僧と言われた道鏡とは同族で、式占の達人であったといわれている。式占の達人で夢占いなどが評価されていたようだ。『今昔物語』の「天文博士弓削是雄、夢を占ふ語」では、弓削是雄が藤原有陰(ふじわらのありかげ)に招かれて近江に赴いた時に穀蔵院の使者である伴世継(とものよつぎ)と出会い、悪夢を見た世継ぎが是雄に占ってもらい九死に一生を得た」という内容が記されている。
陰陽師 864年(貞観6年)-873年(貞観15年)。陰陽允 873年(貞観15年)-877年(元慶元年)。陰陽権助 877年(元慶元年)-885年(仁和元年)。陰陽頭 885年(仁和元年)。
■賀茂忠行(かものただゆき生没年不詳 没年は960年という説も)
役小角の子孫にして安倍晴明の師として知られる。陰陽道のみならず、天文道・暦道など様々な分野に明るかった他、占術である卜占(ぼくせん)においては驚異的な的中力があったことが知られている。村上天皇が水晶念珠を見えないように箱に入れてその中身を占じさせたところ、見事に言い当てたという伝説(三善為康「朝野群載」)。これらの能力は覆物の中身を占術で当てることから「射覆(せきふ)」と呼ばれた。しかし占術だけでは分かりえない形状も言い当てていることから、「透視能力」の素地があったのかもしれない。この他にも今昔物語には、京都下京区辺りに住んでいた裕福な法師が不思議なお告げがあったので忠行を訪ねたところ、「某月某日、厳重な物忌(ものい)みをせよ。でなければ物盗りに命を奪われる。」との占いを得た。その言葉に従って厳重に物忌みを行ったところ、物盗りは現れたが客人である平貞盛の助力で難を逃れた、という伝説もある。今昔物語集の「安倍晴明忠行に随いて道を習いし語」によれば、ある時忠行が内裏より自邸に帰宅途中、牛車の外にいた供の幼少の安倍晴明に呼び起こされて外を見ると百鬼夜行の一団と遭遇、難を逃れ」とあるが、この際に鬼神から自分たちを見えなくする「穏形術(おんぎょうじゅつ):霊的結界術と考えられる」を使ったとされる。忠行が陰陽師として認められたのは940年に平将門の乱・藤原純友の乱が勃発した際、この対策のために時の権力者藤原師輔に、当時は密教高僧さえ知らなかった「白衣観音法」を進上したことがきっかけである。「白衣観音法」とは真言密教の修法で、空海が唐より持ち帰る以前に忠行が知りえたのは、先祖役小角からの叡智の継承を示唆しているとも考えられる。忠行の最大の業績は息子である保憲に加え、弟子である安倍晴明という偉大な陰陽師達を育成した功績である。忠行の登場以降、賀茂氏は陰陽師と陰陽道・暦道の発展に欠かせない存在となる。官位は従五位下・丹波権介。
■賀茂保憲(かものやすのり917年~977年)
賀茂忠行の息子で平安中期を代表する陰陽師で、安倍晴明とは4歳違いであるからほぼ同世代であるが、史実においては晴明の師である。今昔物語「賀茂忠行、道を子の保憲に伝えし語」には、保憲が幼少から霊能力に長けていたことをこう記している。「忠行がある貴人の家にお祓いに行く時、幼いわが子・賀茂保憲が供をするというので連れて行った。無事終わって帰宅途中に保憲が祭壇の前で供え物を食ったり、それで遊んだりしている異形の者を目撃した事を話すと、忠行は自分の子のただならぬ能力を予見し保憲に陰陽道を教えた」。また今昔物語には、保憲と晴明が射覆による透視試合をする様子が収録されているそうだが、現存していない。源頼経の日記『左経記』では、「当朝は保憲をもって陰陽の規模となす」と高評価されている。神護寺で三方五帝祭を行い、八省院での属星祭(開運のためにその年に当たる星を祭る行事)を修するなど陰陽道の祭祀を主宰し、日時や方角の吉凶・災異を占って上申し、官僚としても出世し「陰陽頭」に。嫡子の加茂光栄に暦道を、弟子の安倍晴明に天文道を伝授し、後の賀茂氏・安倍氏の2家世襲体制の礎を作った。官位は従四位上・陰陽頭。
■安倍晴明(あべのせいめい 921~1005年)
歴史上、最も著名な陰陽師で後の土御門氏の祖である。セーマン(晴明桔梗・晴明紋・五芒星)という呪符を使い、人形(ひとかた)を使って「青龍」・「勾陣」・「六合」・「朱雀」・「騰蛇」・「天乙貴人」・「天后」・「大陰」・「玄武」・「大裳」・「白虎」・「天空」の式神(しきがみ)十二神将を自由に駆使し、驚異的な呪術を展開したとも伝承されている。しかし晴明もまた、役小角同様に特に出自に関して謎の多い人物である。父は系図によれば大膳大夫・安倍益材(あべのますき)、物語や伝説上では父は安倍保名(あべのやすな)であるが、問題は母親である。母は「狐の化身・葛の葉(くずのは)」。もちろんこれは浄瑠璃のモチーフであり実際は狐の子ではなく人間の子である。しかし母の名とその存在は現代においても明かされていない。この出自の謎に迫る前に、意外な晴明の姿を記しておこう。映画などでおなじみの晴明像は、若くて才気のある存在だ。しかし、史実によれば陰陽寮に初めて晴明がやって来るのは、961年、晴明はすでに41歳だったのである。しかも陰陽師ではなく「天文得業生(てんもんとくごうしょう):当時の特待生」として、である。しかし登庁後、晴明は順調に出世街道を駆け上がっていく。それはまるで、約束されていたかのごとく、である。967年47歳の時にはすでに陰陽師として天皇へ勘文(=提案書)を差し出し、972年52歳で「天文博士」、さらに986年66歳で「天文博士正五位下」の地位を得る。陰陽頭の位階が「従五位下」であることから、さらに上位高官である。そして995年には陰陽寮を離れ「蔵人所主計権助」(正五位上)へと昇進した。この蔵人所とは天皇直属の秘書室であり、いわば天皇の側近ブレーンである。この出世ぶりは、たしかにそのまま晴明の才能・能力の反映かもしれない。しかしブレーンにおいてさえもその家柄を気にする天皇家の体質から考えると、出自不明な晴明に対する重用措置はあまりに異例の厚遇とも見られる。ここで晴明の謎となっている出自に関して、ひとつの仮説ができあがる。それは母「葛の葉」は、賀茂氏の家系であるというものである。つまり晴明は賀茂氏の秘蔵っ子だという説である。もちろん単なる隠し子とかではなく、陰陽道の秘儀を託され、さらには天皇家の血筋さえも継承し天皇を守護する者、という重要な使命を与えられていた子である。もしこの説が正しいとすると、いくつか疑問が解明される。まず、異例の出世と最終的には天皇の側近になったこと。次に、今昔物語集の「安倍晴明忠行に随いて道を習いし語」の件である。幼少の晴明は忠行との道中、鬼神(おそらく死者の霊)を霊視し、その能力を忠行が認めその後陰陽道を伝授する。そもそもなぜ、幼少の晴明が忠行と道中を共にしていたのか?もし晴明と忠行が親類関係であり、忠行が占術もしくは霊力によって晴明の偉才を見抜いていたとすれば、この道中のくだりも納得のいくものとなる。そして、晴明の登場は、天文博士(天文道)は安倍(土御門氏)が主に世襲し、暦博士(暦道)は賀茂氏が世襲するという両氏による寡占体制の完成を意味した。いかに晴明に才能があったとはいえ、陰陽師を統括し始めていた賀茂氏が、安倍氏との権力分与に合意するには、他の理由があったと見ることができる。その理由こそ、晴明=隠れ賀茂氏であり、賀茂氏と安倍(土御門氏)がまさに陰陽の関係になりつつ、陰陽師と陰陽道に影響を持ち続けるための秘策だったのではないだろうか。最後にもうひとつ解消される謎だが、晴明の41歳までの空白の年月は、賀茂氏の指導によって、陰陽道や秘儀・秘術の修行期間にあてられていたとすれば、その後に発揮する能力の源泉も見えてくるであろう。その秘儀にはおそらく「迦波羅」(=カバラ)も含まれていたと考えられる。その証左はひとつには「式神の術」である。もしカバラが伝来されていればその一部の魔術体系である「召還法」が使われた可能性もある。もうひとつの証左が、江戸期から昭和初期まで岡山県上原(かんばら)地区にいた晴明の子孫とされる「上原(かんばら)大夫」という陰陽師集団である。この上原の読みは「かんながら」や「神祓い」に由来するという説もある一方で、迦波羅やその使い手である「漢波羅(かんぱら)」に由来があることも十分に考えられるのである。もし晴明が陰陽師であると同時にカバラの秘儀の使い手である漢波羅でもあった、と仮定すれば、後にも先にも陰陽師の技量としては登場することのない「式神の術」という神秘なる呪術を晴明が駆使できたとしてもさほど不思議ではないであろう。
■賀茂光栄(かものみつよし939年~1015年)
賀茂忠行の孫で賀茂保憲の長男。祖父・父に継ぎ、高い能力を発揮した陰陽師であったという。先の安倍晴明の項に記したが、光栄でさえもなぜ賀茂氏の家学である陰陽道を分割してまで安倍氏に宗家の地位を与えたのか疑問に思っていたらしく、晴明と争論したという(『続古事談』)。また「御堂関白記」や「栄花物語」によると、「藤原道長が晴明と共に光栄を呼び寄せて相談や占いとさせていたこと」からも、当時の権力者は、晴明と光栄の能力を相補的に使ったようである。祖父忠行譲りなのか、予知能力にも長けており「的中すること掌を返すが如し」と絶賛されたという。暦博士・天文博士・大炊頭・主計頭などを歴任。官位は従四位上・右京権大夫。
■安倍吉平(あべのよしひら954年~1026年)
安倍晴明の長男。賀茂光栄と並ぶ陰陽師として父の亡きあと、藤原道長をはじめ天皇・貴族のために占いや祭祀を執行。その内容は、主に以下のものである。「藤原頼道に取り憑いた具平親王の物の怪を賀茂光栄と共に祈祷した」(宝物集)、「五龍祭や四角祭を勤めた」(日本紀略など)、「親仁親王を産んで死亡した嬉子の入棺・葬送に関する事項を頼道に勧申」(栄花物語)。また、「古今著聞集」には吉平が医師の丹波雅忠(たんばのまさただ)と酒を呑んでいた時に地震を予知した話がこう記されている。ある時吉平が友人である医師の丹波雅忠と酒を飲んでいた。しかし、雅忠は話に夢中になって手の杯に注がれている酒を飲まずに話をしていた。と、吉平が急に「早くその杯の中の酒を飲んでしまわねば地揺れ(地震)が来ますよ」と告げたという。するとそのすぐ後に実際に地震が来たという。陰陽博士、陰陽助、官位は従四位上。
■安倍吉昌(あべのよしまさ生年不詳~1019年)
安倍晴明の次男。1017年、吉昌は安倍家としては初めて、晴明でさえ成しえなかった陰陽頭に就任する(ただし晴明はさらに上位官僚にスキップ昇進)。このことは、陰陽頭がこれまで賀茂氏、大中臣氏などの格式の高い陰陽家が歴任していた世襲の終焉であると同時に、安倍(後の土御門)氏と賀茂氏による陰陽師支配体制の実質的な始まりを意味するものだった。こうして吉昌は、兄・安倍吉平や賀茂光栄らと共に陰陽道宗家として陰陽寮を統括する。文博士・陰陽博士・主計頭・陰陽頭などを歴任。官位、従四位上。
■安倍泰成(あべのやすなり)
安倍晴明の四代目の子孫。陰陽頭。平安時代末期、鳥羽上皇に仕えた。その際に、鳥羽上皇に取り憑いたとされる妖狐・玉藻前と呪術で対決したと言われている(神明鏡)。ちなみに玉藻前のモデルは、鳥羽上皇に寵愛された皇后美福門院(藤原得子)である。この玉藻前伝説は、皇后美福門院(藤原得子)が、その後に起きる「保元の乱」、更には武家政権樹立のきっかけを作ったという史実が下敷きになっている。ただ、この妖狐討伐のストーリーには、泰成が「軍師」として活躍しており、武家社会を目前としたこの時代に陰陽師には「戦術家」という新しいミッションが加わっていることは特筆すべきであろう。
■安倍泰親(あべのやすちか生没年不詳)
安倍泰成の子、安倍晴明の五代目の子孫。藤原頼長や九条兼実に重用されて1182年に陰陽頭。卜占の天才で平家滅亡とその時期までを予言的中させたことから、「指神子(さすのみこ)」と呼ばれた。また、肩口に落雷した際に袖を焼いたものの奇跡的に怪我一つ負わなかったとされている。
■安倍章親(あべのあきちか)
安倍吉平の子、安倍晴明3代の子孫。1055年に陰陽頭就任した際、賀茂氏に暦博士を、安倍氏に天文博士を代々独占世襲させることと定めている。
■蘆屋道満(あしやどうまん生没年不詳)
蘆屋道満は朝廷に勤務する陰陽師ではなく、庶民、もしくは貴族などに雇われて活動する播磨流の民間系陰陽師。安倍晴明のライバルとして多くの伝説が残され、「式神対決」などが有名である。また、安倍晴明の霊符セーマン(五芒星)に対し、道満は九字と格子で構成されるドーマンを霊符として使用したことで知られている。ライバルとされた理由は、晴明が当時の関白・藤原道長と懇意であったのに対し、道満は道長の政敵と言われる藤原顕光に用いられることが多かったためである。顕光に呪詛を依頼された道満は晴明に見破られたために播磨に流され、死亡したとする。しかしその後も道満の子孫が瀬戸内海寄りの英賀・三宅方面に移り住み陰陽師の業を継いだとされる(室町時代の播磨地誌「峰相記(ほうしょうき)」。また、歌舞伎や文楽の演目「芦屋道満大内鑑」をはじめとした著作で、しばしば安部晴明と呪術合戦を繰り広げるライバルとして登場するが、もっぱら晴明を引き立てる悪役として道満は描かれることが多い。しかし、晴明は道満の「九字」をも自己の呪術に活用しており、両者はライバルというよりも、共に神秘なる叡智を切磋する間柄だったと考えることもできる。ここで道満の素性・正体について、秘史史観からの解釈も加えておきたい。蘆屋道満の蘆屋は、兵庫県の芦屋のことであり、当時この地帯は多数の民間陰陽師の拠点であった。道満の本名は謎とされているが、一説には「秦道満」とする説がある。もしこの説が正しければ、秦氏=賀茂氏=安倍晴明という関連から、道満と晴明は、同じ秘教を継ぐ同志ということになる。つまりセーマン・ドーマンは陰陽の関係を構成する対なる思想・術であるとも考えられる。道満が活用した九字と格子のドーマンは、最後に十字を切って祈ることで効果をあげる、という俗説も流布している。陰陽師が十字を切るとき、それは九字にひとつ加えた十字(つまり九字が表ドーマンで十字が裏ドーマン。これも陰陽関係)であり、キリスト教徒の十字架と同じ象徴を指すことになる。このことからも、陰陽道とカバラは無関係ではないという説もある。真相は定かではないが、道満が民間ながらも卓越した陰陽師であったことは、晴明伝説同様、蘆谷道満伝説も大規模に拡がっていることから推察できる。「蘆屋塚」・「道満塚」・「道満井」の類が数多く日本各地に残されている。
■智徳法師(ちとくほうし)(?-?)
播磨国の僧侶資格を持つ法師陰陽師。蘆谷道満と同一人物ではないかとの説もある。『今昔物語』『宇治拾遺物語』には、「海賊に襲われた船主に同情して陰陽術を用いて船荷を取り戻した話」や、「安倍晴明の実力を確かめようと、自分の式神(しきがみ)を童子として物体化させて呪術対決に臨んだが、逆に晴明に式神たちを隠されてしまい、陳謝して自分の式神を返してもらい、その後晴明を師と仰ぐ」というエピソードで知られる。その際晴明は「自分の式神を使役するのは容易いが、人の式神まで操ることはそう簡単ではないのだ」と格の違いを訓戒したそうである。
周知のように鎌倉時代以降は、著名な陰陽師は排出されていないが、史書等に名を残した陰陽師を何人か挙げておこう。
■安倍晴光(あべのはるみつ 生没年未詳)
安倍家の末裔。六壬占式(六壬神課 りくじんじんげ)に長けており、「1200年9月7日、後鳥羽上皇の命で、射覆(せきふ:隠した中身を当てる)が催され、六壬占によって安倍晴光が的中させる。」(丙戌月/庚申日)とある。その内容は六壬神課で出た卦を見て「光沢のある水器で亀の形をしている」と読み取ったところ、中にあったのは「亀の形をした硯」だったというものである。また、天文博士としての地震に関する認識として、「地の動くは、龍の動くところなり」(『山槐記』)との勘文を寄せ、当時の陰陽師が地震を龍の動きとして直観していたことをうかがわせる。
■安倍有世(あべのありよ 1327年~1405年)
晴明の14代目の子孫。陰陽師として初めて「公卿」の地位に昇り、後の土御門家の基礎を築いた。そのため、有世をして「土御門有世」とする説・書物もあるが、土御門家が実際に成立したのは室町時代後期と言われており、有世を「土御門」と呼称する事は誤りであり、有世以降の安倍氏を土御門家とするという見方が有力のようである。「従二位非参議刑部卿」という陰陽師としてはかつてないほどの高位に上り詰めた結果、有世の死後も陰陽師をして「ありよ(ありよう)」と呼ぶ俗語が庶民に広がったほど、その名を広く馳せた
■安倍有宣・土御門有宣(あべゆうせん・つちみかどゆうせん 1433~没年未詳)
安倍有世の末裔であり、また、安倍氏の末裔として初めて土御門家を名乗った陰陽師とされる。1513年(永正10年)頃、有宣が戦乱を避け、若狭国名田庄に移ることによって、以後子孫は若狭国と京都を往還することになるとされる。1525(大永5)年には、有宣の長男、有春が従四位陰陽頭となる。安倍氏が土御門を称する代については、1562(永禄5)年の有脩から正式に土御門を称するとする説もある。
■勘解由小路在富(かでのこうじあきとみ 生年不詳~1565年)
賀茂在方の子で、事実上、賀茂家最後の陰陽師である。室町時代、賀茂在方以降の賀茂氏は、勘解由小路家を称した。後継者となるはずだった在富の嫡男である在昌が、キリスト教の洗礼を受けた事を知り、在富がこれを廃嫡。続いて甥の在種を養子とするが、後に在富自身がこれを暗殺して自ら家名を絶ったとも言われているが、病死説もあり真相は謎になっている。在昌の子、在信も陰陽師になるも、その活動は知られぬままに歴史から消え、江戸時代に幸徳井家(賀茂氏の庶流である)が再興するももはや力はなく、事実上、在富をもって、平安期より連綿と続いた長い賀茂氏の陰陽師支配、並びに暦道宗家としての歴史は幕が下りたことになる。
■勘解由小路在富(かでのこうじあきまさ 生年不詳~1599年)
勘解由小路在富の嫡男。クリスチャン名マノエル・アキマサで、キリシタン陰陽師としても有名。在富は、日本随一の天文学者だったが、キリシタンと共に流入してきた西洋科学に魅せられクリスチャンになったという。その際はフランシスコ・ザビエルから直接洗礼を受け、京都で最初にキリシタンになった人々の一人だったとされる。また暦道家としての失望もあった。それは陰陽寮が作成する京暦に不信感を持った織田信長(信長三島暦を支持した)によって、在富と土御門有脩が呼び出されたが、結局、日月食の正確さは三島暦に軍配が上がったことが判明する。これによって、武家からの陰陽寮の暦部門の信用は失墜することになる。しかし、公家からは在富は重用され、キリシタンとなり父在富の怒りを買ったにも拘らず、宮廷出仕が許されたそうである。それだけの偉才があったとされている。
■土御門晴雄(つちみかどはるお1827年~1869年)
土御門家陰陽道の最後の当主。土御門家最後の陰陽師であり、「陰陽寮」に所属した宮廷陰陽師の最後の人物である。明治政府が発足したこの時代、陰陽家の必要性はもはや暦作りに限られていたようである。晴雄は太陽暦導入に反対したが、この反発は逆に明治政府の陰陽寮、陰陽道、陰陽師排斥化の勢いを強めるだけだった。その結果、1870年、晴雄の死をもって陰陽寮は廃止、陰陽道も禁止とされ長い陰陽師の歴史に幕が降ろされたのである。