祈りとは、“ある対象”(多くの場合「人智を超えた力を所有する存在」)に対して「心を開く」、「心からの願いを伝える」等の行為を指す。また、祈りの目的は、祈りを捧げることで、「その力の恩恵に預かる」、「祈りの対象と意思の疎通を図る」などがある。
祈る対象は、人それぞれ違う。神、仏、教祖、宇宙などなど、誰に対して祈るのかは、その人本人が決めることである。また、「何を祈るのか」に関しても、人それぞれ内容は異なってくる。自分自身や身内の健康や成功、あるいは、友人・知人の健康や成功、また、漠然と世界の平和などを祈るなど、祈りの内容もその人自信が決めることである。
宗教によっては「祈りの対象」、「祈りの内容」、「祈り方(作法)」などが決められている場合がある。しかし、一般の人の場合、「祈り」はまったく自由な行為であり、いつどこで、誰に対し、何を祈ろうと、なんら拘束されることはない。
「祈り」をことさら重要視してきたのが、「祈祷師(シャーマン)」や世界の宗教各宗派である。宗教の各宗派の祈りに関しては、情報も膨大となるため、ここでは、「祈祷師(シャーマン)」について少々触れておきたい。
かつては日本でも、神道において「巫女」(みこ)と言えば、本来の仕事は「祈りを捧げて自分の身体に神を宿す」ことにあったといえる。
現在もその名残を引き継いでいるのが、沖縄の「神女(ノロ)」や「ユタ」と呼ばれる人たちである。特に「ノロ」は、元来、琉球王朝に対し天からのメッセージを伝える神職者だった。そのため、朝から晩まで祈りを捧げるのが職務だった。
この「ノロ」は、沖縄の久高島生まれの女性の中から選ばれるのだが、現在は後継者選びは行われていないため、現存するノロが最後となる。ちなみに筆者は、かつて沖縄でノロと久高島でお会いする機会があった。
朝は朝日に向かって祈り、昼は「御嶽(うたき)」と呼ばれる祈りの場所で祈り、と、今でも一日の大半を祈りに捧げておられたのが印象的だった。ちなみにそのノロの祈りの内容とは、「地球が平和で、調和のある世界になりますように」というものだった。
2010年10月、日本に「13人のグランマザー評議会」というシャーマンたちのグループがやって来た。この13人は北米インディアン部族や南米の各部族、アジア、アフリカの部族等を代表するシャーマンのおばあちゃんたちで構成されている。
彼女たちも、時間さえあれば「祈り」を行っている。また、「祈りによって一人ひとりが、人智を超えた大いなる存在(=神)とつながることが、今の時代においてはとても重要なこと」と言うメッセージを残している。
また同じく昨年10月に、グァテマラ・マヤ族の長老も来日したが、やはり同じく「祈りの重要性」を説いていた。
さて、こうしたシャーマンたちの「祈り」に対する世界観をまとめておこう。
まず、祈りは「通じるか、通じないか」(願いが叶うか、叶わないか)という結果は重要ではない、と一様に言う。結果がどうあれ、「人間は神(もしくは人智を超えた存在)に対して祈るべきである」というのがシャーマンたちの統一した意見だ。
ではなぜ祈るのかと言うと、祈ることで「神との意思の疎通が図れる」、「結果はどうあれ、心が穏やかになる」、「他人のこと、世界のことを思いやれる優しさが根付く」などのメリットが挙げられている。
多くの人はどうしても「結果が欲しい(あるいは重要)だから祈る」というのが、正直なところだろう。しかしシャーマンたちによれば、「結果を欲しがるのはエゴであり、そのエゴを超越できたときに、本当に祈りは通じる」と言う。
ともあれ、新年だけの祈願であれ、受験や無病息災の神頼みであれ、祈りによってたしかに私たちは「偉大なる存在」を意識する。その存在はいわば、人類にとっての父のようなものだろう。
どんな父親も、わが子が思い出してもくれない、ではさびしいのは当然だ。人々が祈ることで大いなる父も、「おお、やっと私のことを思い出したか」と、祈りの声を聞き届けてくれるのかもしれない。
祈りとは、一般的に自らの心願成就、又は近親の人や環境へ対する願望を叶えようと、「神」など恐れ多いとされる大きな存在へ向かって思いを伝え、具現化しようとする行為を指す。
形態は地域や宗教によって様々だ。
例えば信仰する宗教で定められている聖句を述べたり、黙祷や合掌をしたり、決まった時刻に礼拝をしたり、時には生け贄を捧げたりなどして表現する。
まずは、「祈り」にまつわる歴史を、宗教を中心に解説する。
人類の初期において、信仰の対象は主に自然だった。太陽や星、山、森林、河川、樹木、岩石、動物などへ、主に五穀豊穣や病気平癒など、現世的な願望を叶えるべく祈っていた。
万物に神が宿るという多神教的な考え方がベースで、それらに宿る命を「精霊」もしくは「神」と称して崇めたのだ。
祈りは呪術めいた文言を唱えることや踊り、太鼓など原初的な楽器を用いた音楽等の形で表現された。祭祀の始まりである。
ちなみに、これらは現在でも土着信仰という形で多数の地域に根付いている。
キリスト教、特にカトリック信者においては、信仰のほとんどは祈りを中心に行われているといってもよい。
祈りは神との対話とされており、その中で未熟な自分を内省し、精神を磨く機会が重要と考えられているためだ。
神を讃え、感謝を表した上で、自らを懺悔し、良き方向へ導こうと願う思い、そして行動が具現化されたものがこの信仰における祈りである。
ちなみに、キリスト教の初発であるカトリックでは、神父や法王などの聖職者を神との媒介とし、礼拝や懺悔の際に指南してもらう。
しかし後発のプロテスタントは、媒介者を持たず、誰もが直接、神と対話できるという考え方を持つ。
牧師は単なる指導者とみなされ、日常生活を自らの意思で律することが求められるようになった。
いずれも根本にある思想は、「人間は神からみると不完全な存在である。だから日々懺悔し祈りを捧げることで、完全体である神の御心に近づいていく」というものだ。
祈りは、日々においては黙祷、又は聖句を読み上げる、戒律を順守する、などの方法で行う。また讃美歌、聖歌などという歌に乗せてこれを行う場合もある。特に音楽は、「神に美しい形で聖句を届ける」大変尊いものとされ、歌唱を主として発展してきた。
一般的に、仏教に「祈り」という概念はない。願望成就の為に何かを唱えたり踊ったりすることで望む方向へ進むより、その思いが生まれる心の状態を改善しようとする。
祈りを生む心根は「煩悩」であるとし、それを捨てあるがままを受けとめ、今生化されている事実を万物へ感謝することが、幸福につながるという思想だ。
「祈り」より「受容」、もっといえば「悟り」を求めているのである。
神道は日本土着の信仰であり、アミニズム(自然信仰)をベースとしている。古来、自然の猛威に振り回されてきた農耕民族である日本人が、その恵みを享受しつつ来年の豊穣多産を願う祭祀を司るものであった。
原初の信仰にきわめて近い。
具体的には雨乞いであるとか、太陽にむけての祈りなどが挙げられる。
その他、海や山、森林、河川、岩石、巨木、など様々な自然物に宿る精霊へ向け、災害回避等を願うものもあった。
また、祖霊信仰の側面も持つ。死した魂は山や海へ浄化の旅路を歩み、その後、自分たちの土地の守り神となると考えられていた。それに感謝する場として、神社を用いたのだった。
その他には来年の計を亀甲を焼き、その割れ方で占ったり、神の御神託を巫女と呼ばれるシャーマンを通して聞いたりなどの場として活用された。
祈りは、祝詞(呪術的な文句)や踊り、民謡的な唄、また五穀豊穣への感謝祭的な祭祀を中心に、地域ごとに異なる様々な形で表現される。
イスラム教では、一日に3~5回の礼拝をなすのが通例だ。
形態は特殊で、偶像崇拝が禁じられているため、メッカと呼ばれる聖地の方角に向かって経典の「コーラン」の句の一部を読み上げ(黙祷でもよい)ながら、立ったりしゃがんだりする独特の仕草で礼拝する。その際、モフルという専用の小さな石に額をこすりつける動作が特徴である。
これは日々信仰生活に身を置き、アラーの神の下、禁欲や自己研鑽をたゆみなく行うことが、未来の幸福の礎になる、という教えがベースである。
その他、祈りを重視する宗教には、ハワイに土着信仰が存在する。「ホオポノポノ」と呼ばれるものだ。
これは祈り=心身の浄化という考えで、「全ての事象は自らの責任」という発想のもとに、苦しみや悲しみを祈りで癒そうというものである。
具体的には「ありがとう」「ごめんなさい」「私を許して」「愛しています」などの言霊を唱えたり、唄ったり、独自のメソッドで精製した「ブルーソーラーウォーター」と呼ばれる水分の摂取をして浄化を促したり、などというものである。
昨今、アメリカを中心として「引き寄せの法則」というものが提案されている。
これは一種の自己暗示、または心理療法を使った祈りと言ってよいだろう。
具体的には、ポジティブな発想を心がけて言霊に気をつける、望みを紙に書き、張るなどして想念を高める、等の行為で願望達成を目指す。
また、心願成就を妨げるトラウマを解消するための独自のメソッドの中で、音楽や映像などの教材を使うものもある。
またその他には、新月のパワーも注目されている。
「新月になってから8時間以内に、願望を紙に書くと願いが叶う」というものだ。
月の満ち欠けは地球の引力を左右し、潮の干満を引き起こす。
それが磁場や人の行動等も影響を与えるという根拠に基づいているそうだ。
段取りを以下へ簡単にまとめる。
・きれいな紙を用意する。
・願い事は2つ以上10つ未満。1つだと叶いにくく10個以上だとパワーが弱まる。
・書き方は、例えば「来年○○大に合格します」などのように具体的かつ言い切りの形が良い。
・書きあげたら机の奥などにしまいむやみに取り出さないようにする。
・また「ボイドタイム」というものがあり、その時間は新月でも願望が叶わないので注意したい。
これは手軽に出来るためか、幅広く流布している。
最近では霊能者やカウンセラー、ヒーラー等で「祈願、心願成就」をうたい文句にする人が現れるようになった。
確かな腕を持つ者も多くいるが、中には高額な商品を売りつけようとする不届きな人もいるので注意したい。
さらに理解を深めるため、祈りの本質、すなわち祈りとは何かという事を考えてみよう。
人は古来から、人生のあらゆる節目において祈りを捧げてきた。
科学技術が発達した現代においても、その行為をするものは少なくない。
一体何故か。
人生は、不条理でままならぬことが多い。
生まれ持った容姿や才能、環境、自然災害やその他の人災、人との出会いや別れ、そして病気や死など、自らコントロールできないことが多くあるのが現実だ。
努力し、あるいは運よく欲しいものを得られたとしても継続は保証されていないし、ましてや、全てが自分の思い通りになることなどあり得ない。
「祈る」という心情や行為は、実は恐怖心から湧き出てきている。
日々の生活の中で不満、怒りや悲しみ、不合理な出来事などにぶち当たったことは誰しもある。
その状況から抜け出したい、あるいはより向上したい、という思いが高まると、祈りを捧げたくなるのだ。
大げさにいえば、現在の自分や周囲の状況への絶望、そして未来への憧れや希望を夢見る行為だといえる。
だから、人は祈る時、逆説的に己の内面に潜む恐怖心との対峙を強いられる。
恐怖心の元をどう克服するか、あるいは共存できるか、を考えるのが祈りの場であろう。
宗教はその手段として、経典などで優れた思想を用いて指南し、不条理な出来事に関しては「神」などの畏怖すべき存在があることを示して理解を促し、生きる知恵を授けてきた。
近・現代では、科学や心理学などもその一端を担うようになってきた。
恐れ多きものの中に少しずつ、理屈で説明がつくものを織り込み、恐怖心を緩和してきた。
しかし、人の心から恐怖心が無くなることはないだろう。
それは動物としての本能でもあり、人類の発展に大いに影響を与えてきた精神からだ。
己の弱さを認め、上手に付き合っていくことしか方法はない。
また、様々な芸術が祈りの場から生まれてきたのは興味深い事実である。それは、絵画・建築などのあらゆる美術品、そして舞踏や演劇、文学や音楽などと多岐に渡る。
芸術は祈りの場において「神とのコミュニケーション」を求めるため、その存在や伝説を讃えたり、祈る過程で媒介として用いるために制作されたり、あるいは祈りの内容を、唄や踊りにして表現してきた。
真に心のこもった芸術を目にすると、誰もがその迫力に圧倒、感動させられ、時には涙さえ出る。そして、弱く小さな存在である自分を一瞬忘れさせてくれる。
祈りという側面からみると、内的動機を形にした芸術は、圧倒的な存在感で人の心を揺り動かし、その欲望を忘れさせるほどのパワーを持つ。
己の欲を忘却した彼方で、初めて幸福を得られる。
これは太陽や海、星等の自然に畏怖と感動を持つ感覚と一緒だ。
美しいもの、圧倒的なものに触れることで生まれる感動、そして湧きおこるパワーの大きさは尋常でない。心を満たし、日々の艱難辛苦を癒し、明日への活力を生み出してくれる。芸術はそんな役割を果たしてきたのではないだろうか。
人の心の恐怖心との対峙、そして忘却の繰り返しが祈りを持って生きることであり、人類の歴史と発展を支えてきたのである。
そして、祈りの支えになるのは感謝の気持ちだ。
万物に命を与えられ、生かされていることを喜び・幸福と捉えることで祈りは精査され、己にとって本当に大切なものを見つけられるだろう。