真霊論-陰陽師による除霊-呪文-儀式

陰陽師による除霊-呪文-儀式

陰陽師とはどういう知識を学び、どういう実践的な技術を駆使したのか、それらを見ていくことにしよう。

占術

●陰陽道における「占術」の目的
陰陽師はさまざまな場面で「占術」を行っているが、陰陽師たちが占術を通してアクセスしているものは、究極的には「天の意思」とそれが現れる「気の力」である。これらを読み解く手っ取り早いツールが各種の「占術」だった。

●陰陽寮のテキスト
757年(天平宝字元年)に定められていた、陰陽寮に入官する陰陽師候補生たちが必読とされる書物は以下の通りである。
『周易』、『新撰陰陽書』、『黄帝金匱』、『五行大義』。『周易』とは易占いの『易経』のことであり、『新撰陰陽書』、『黄帝金匱』、『五行大義』は日時の吉凶禁忌や式占・五行説に関する専門書(「陰陽道の発見(山下克明)」より)。これらからしても、陰陽師の基本は「占術」にある。

●陰陽師が使った「占術」
1)式占(ちょくせん)
「式占」は、「式盤」を使った占いである。式盤は、宇宙の相関図が縮小されたもの、と考えられた。代表的な式占には、「太乙(たいいつ)式」(太乙神数)、「遁甲(とんこう)式」(奇門遁甲)、「六壬(りくじん)式」(六壬神課)などがあり、これらをまとめて三式と呼ぶ。中でも「六壬式」は特に平安時代から鎌倉時代にかけて、陰陽師必須の占術だったといわれている。六壬式盤は、「與(よ)」と呼ばれる「地」を象徴する台座に、「天」を表わす「湛(たん)」と呼ばれる円形の天板から成り立ち、この式盤を使って天変地異の予知や吉凶判断が行われた。また、鎌倉期以降は、戦術を練る際などには「遁甲」が活用されたとする。
ちなみに、「太乙(たいいつ)式」(太乙神数)、「遁甲(とんこう)式」(奇門遁甲)に関する書物は「秘書」(秘するべき書物)とされ、陰陽寮からの持ち出しを禁じられた。この二冊には「国家転覆」などにも応用可能な知恵が書かれていた可能性がある。
2)易占(えきせん)
『易経』に基づく占筮(細い竹)である。陰陽寮に易占は伝わってはいたが、陰陽師たちが実践的に使うのは式占だったようである。
3)相地(そうち)
「地を相(み)ること」とはすなわち風水術である。相地も陰陽師の重要な職掌だった。特に遷都などの際には、陰陽師が遷都候補地の下見検分を行い「四神相応の地」であるかどうかを判断した。四神相応の地の四神とは、青龍(東)、白虎(西)、朱雀(南)、玄武(北)の事である。これに該当する土地が都に向いているとされ、平安京はこの四神相応の理想の地とも言われている。ただ、陰陽師の風水術は現代風水よりはずっとシンプルであり、相地判断も最終的には、「式占」や亀の甲羅を焼きその結果で占う「亀卜占(きぼくせん)」など「占術」で行われたようである。
4)暦占(れきせん)
陰陽寮で暦を作成するのは暦博士であるが、それを使って占うのは陰陽師だった。陰陽師が使うのは「具中暦(ぐちゅうれき)」と呼ばれる暦である。季節や年中行事、また毎日の吉凶などを示すさまざまな言葉が、すべて漢字で記入されていた。これらの記入事項は「暦注(れきちゅう)」と呼ばれている。この暦注部分を、対象人物や事柄の生年を照らして、陰陽師が吉凶禍福、方角を算出したのである。さらに具体的な吉凶は十干(じっかん)、十二支(干支)、六十干支あるいは、陰陽五行の相克、相生に元づいて行われた。例えば、大吉祥日とされる「天恩日」(天の恩恵を受ける日)には、元服や婚礼が行われ、「母倉日」(母性愛のように天恵を受ける)、「天赦日」(天があらゆる罪を赦す)は吉日とされた。その一方で、「受死日」、「十死日」、「五墓日(ごむび)」は凶日で、「物忌(ものいみ)」(人との接触を避ける日)などにあてられた。この他にも、日の吉凶を占う「十二直」、年の吉凶を占う「九曜占」などがあった。
5)天文占(てんもんせん)
天文占は基本的には陰陽師ではなく天文博士の職掌である。しかし、賀茂忠行(かものただゆき)、安倍晴明(あべのせいめい)らは天文博士でもあり、天文占にも長じていたので記しておく。平安時代の天文とは、星や日月食など天体の観測だけでなく、風、雲、雷、虹など、現代で言う「気象」も含まれたものである。これらを観察して行う「天文占」とは、天体現象や気象現象から「天の姿」や「天のことわり」を知り、その吉凶判断を行うものだった。古代の天体暦である「七曜(しちよう)暦」を使った天文占も、陰陽師ではなく天文博士の職掌である。

呪術

陰陽師たちが実践的に用いたとされるさまざまな呪術を見ていこう。呪術の大半は道教、密教、修験道からもたらされた叡智をそのまま流用するか、もしくは陰陽道によってアレンジした形で使用されている。

1)式神(しきがみ)
「人形に切った紙やその他のものなどに、呪文や息を吹きかけるなどの秘儀で命を宿し、もしくは鬼神を召還し、それらを意のままに使役する呪術」である。「識神(しきのかみ)」や「式(しき)」とも言われる。安倍晴明は「十二神将を操った」といわれるが、その様子を記した古文献はなく真実は定かではない。古文献にある式神使役の描写では、偵察する、雑用をする、人の姿に化けさせる等のほか、「安倍晴明が葉っぱに呪詛をかけ、その葉でカエルを殺した」(宇治拾遺物語)など呪詛を運ぶ、等の記述が見られる。ただし、いずれも式神で使役される鬼神の真の姿は、見えざる存在とされている。つまり、霊的な存在を使役するわけであるさて、陰陽師史上、もっとも謎である式神とはどういうものだったのか、いくつかの仮説をあげてみよう。
●式盤を使った祈祷法・呪術の一種であるという説
式とは、式盤(ちょくばん)に由来したものであり、六壬式盤、もしくは遁甲式を使って行われた呪術であるという説である。これら六壬式、遁甲式はどちらも中国の占術でありながら、聖霊等の使役法を含有した呪術法でもあったとされる。特に遁甲式盤は、陰陽寮からの持ち出し禁止となっていたため、呪術としての強力なツールだった可能性もある。
●見えざる聖霊とのコンタクト、交霊・召還術と応用術説
式神は密教や修験道の「護法善神」(仏法を守護する神霊)にルーツがあるとも考えられる。陰陽道の開祖、役小角(えんのおぬず)は、自身の護法善神である神霊や自然精霊を使役したとされる。役小角は賀茂氏であり、その術を子孫である賀茂忠行らへ伝えた可能性はあるだろう。それが平安時代に式神という呪術になった可能性もある。例えば、現代にも人物に医師団の霊や聖霊が憑依して心霊手術を行うという現象がある。これもいわば「霊の使役」である。また、もし本当に陰陽道に「迦波羅(かっばーら)」(=カバラ魔術)が含まれていたのなら、天使や悪魔などの召還魔術も伝道されていた可能性がある。式神もこの形態に近い何かではないかという推測である。
●ブラックマジック的技法説
物や動物などに呪詛をかけ、それを敵対者に送るもしくは遠隔的に作用させる、いわゆるブラックマジック手法である。悪意のある呪詛をかけた物品は「厭物(まじもの)」と呼ばれた(後に詳述)。古文献には「藤原道長の病気は式神によるものだということである。」という記述があるが、この際に道長の家からは「厭物」が発見されている。つまり、「厭物」による効果をして式神と呼んだのではないかという説である。
●気功術説
陰陽師は「気」を扱う職種であったといえる。そのため、仙道由来の気功術などを行い、気を練ることで何かしらの現象を起こす術があったのではないかという説である。
●いざなぎ流の式王子
陰陽師の式神の実態については、あまりに文献資料等が少なすぎて詳細が不明である。しかし、高知県の物部村に現代でも残る民間信仰「いざなぎ流」には多少、具体的な「式王子」(陰陽師の式神)の様子が分かるので付記しておく。「いざなぎ流」における執行者は太夫と言うが、 この太夫が使役する霊的存在が「式王子」である。「式王子」は例えば、巨石を神格化した「高田王子」、木火土金水の式を調和する力を持つ「五人五郎の王子」、 狼を式化した「オオカメ式」など、数十種があるという。これら「式王子」は太夫の読む「法文」によって使役されることになる。「法文」には「式王子の由来」、「どのような力を有するものか」などが語られる。式王子を使役することを「式を打つ」と表現する。式王子を打つのは、重病人など祈祷効果が少ない場合などの措置だったようだ。ただし、「いざなぎ流」は多分に陰陽道と修験道、密教の習合的要素が色濃いこと、そして現代においてはこの式王子の呪術が継承された太夫はいないことを記しておく。

2)蠱毒(こどく)・犬神・猫鬼
古代中国からの伝来呪術で虫を使った呪術のこと。蠱道(こどう)、蠱術(こじゅつ)、巫蠱(ふこ)などともいう。ただし蠱毒は再三にわたり使用禁止令が発布されている。「器の中に多数の虫を入れて互いに食い合わせ、最後に生き残った最も生命力の強い一匹を用いて呪いをする」という術式が知られる。ちなみに、犬神は犬を使用した呪術で、猫鬼は猫を使用した呪術。蠱毒も含め、動物など生命体を使った呪術も多くあったようである。この蠱毒が式神のモチーフもしくは実態ではないか、とする説もある。

3)人形(ひとかた、ひとがた)
形代(かたしろ、かたじろ)、撫物(なでもの)とも言い、紙や木材・草葉・藁などで人形を作り、呪詛をかける対象とする。呪詛とは、霊的な神秘世界に働きかけることを意味し、善悪両面の活用が可能である。西洋では、善用をホワイトマジック、悪用をブラックマジックと呼ぶ。人形の善用としては、病気や怪我の際、患部等を触った後、それを人形に移し「穢(けが)れを祓(はら)う」、男女二体の人形を一つにして祈祷し恋愛成就を祈る、などがある。悪用としては、「丑の刻参りのわら人形」など、人形に傷を付ける、釘を刺す等で恨みをかける方法がある。ただし、悪意利用の場合は必ず「呪い返し」が来るとされ、その対処術を知らない者は絶対に行ってはならないとされている。また、呪詛をかけた品を対象者の家などに隠し置き、呪詛を成就させる方法もあった。

4)厭物(まじもの)
呪詛を施す物品は、前述の人形以外にも、後述する呪符、あるいは欠損のある物品、古物などが使用された。こうした物品はそれが呪詛に使用された場合は「厭物(まじもの)」と呼称された。例えば、貴族などが病気になった場合、駆けつけた陰陽師がまず行うのは、住む家のどこかに厭物が仕掛けられていないかどうかを調べ、対応することだったようだ。
古文献には、この厭物をして「式神」と表記しているものもある。

5)『埋鎮の皿(まいちんのさら)』
二枚の皿に神名や呪文を書いて神的パワーを封じ込め、皿を土中に埋める。これにより「神鎮め」もしくは「邪気封じ」が行われたようである。
6)呪符・護符(じゅふ・ごふ)
「呪符」は呪詛をかけるために用いられる符であり、「護符」は身を守るための符、お守りである。これらを総称して「霊符」と呼ばれたりもする。符は種々の紋様、呪文、記号、神秘図形等の組み合わせで構成される。霊符の起源は、中国から伝来した道教にあるとするのが有力な説である。符の作成法は「修法」と呼ばれるが、これは陰陽道、道教、密教他、霊符を用いた各宗派がそれぞれの理論体系を持つ。符のデザインである「付図は、漢字や梵字などが多く用いられる仏教的要素の強い「日本式」と、呼ばれる符群であり、道教経典類に多見される図形的要素の強い「中国式」と呼ばれる符群がある。

7)セーマンドーマン
陰陽師が用いた霊符は、安倍晴明に由来する「セーマン」(晴明桔梗・晴明紋・五芒星)や、晴明の良きライバルだった芦屋道満に由来する「ドーマン(九字格子)」と呼ばれる図形を記すものも多い。セーマンの五つの頂点は陰陽道の基本となる五行を表し、それを結ぶことで万物の除災、清浄をもたらす霊的バリヤ(結界)を張ることを目的としている。セーマンは後には安倍家の家紋となり、晴明神社の社紋。ドーマンは聖なる「九字」(九字の項参照)で結界を張る。これら二つを組み合わせた「セーマンドーマン」が、伊勢志摩の神島地方の海女さんたちのお守りとして現代でも活躍している。他にも「鎮宅七十二霊符」、「×」、「篭目」、「渦巻」、「六芒星」や、「急急如律令」の呪文(呪文の項参照)が書かれた霊符もある。霊符は、人間だけでなく、神社仏閣等に奉納することでその場所を守護する結界としての機能を持つと言われている。また、呪詛をかけて敵対者の家などに隠し置くことで、病気にさせる等の効果も果たしており、「式神」との関係性も取りざたされている。

8)呪禁(じゅごん)
呪禁は、中国の「呪禁道」(道教と仏教の影響から派生)にある呪術で、宮内省に属した典薬寮には呪禁師たちがいた。日本における呪禁は主に、「病気を呪術で治す」呪術医療のために用いられたようだ。典薬寮がその後陰陽寮に吸収されたことで、陰陽師にも呪禁術が伝わった。禹歩(うほ:別項参照)、営目、掌訣、手印、或いは牙歯禁、営目禁、意想禁、捻目禁、 気道禁、存神禁などの技術を用いて、病気の原因となる邪気や、その他、厄災の要因となる邪気・鬼神等の侵入を「禁ずるための術」である。呪禁を行う際には、刀を持ちながら呪文を唱えたようで、このようなスタイルは例えば 陰陽師が行う「反閇(へんばい)」(別項参照)の際にも見られる。

9)反閉(へんばい) 反閉とは、その場の邪気を祓い、気を鎮め整える呪術的な歩行術・作法全般を指す。その際の歩行法そのものを反閉と呼んだりもする。土御門家の家司、若杉家に保管されていた文書「小反閇作法」の中には、陰陽師は反閇の際に刀持ちながら「刀禁呪」(※)を呪し、符呪を切る所作が記されている。従って、反閉は呪禁道由来であることが分かる。反閉の際に読む呪文には、「想へ東方木禁は吾が肝中に在り。想へ南方火禁は吾が心中に在り。想へ西方金禁は吾が肺中に在り。想へ北方水禁は吾が腎中に在り。想へ中央土禁は吾が脾中に在り。」などとあり、観想法の一種でもあったと考えられる。また、次項で説明する道教の「禹歩(うほ)」が陰陽道に入り反閉と呼ばれたとする説が有力である。また、道中の除災を目的として出発の際に門前で行われた。陰陽師自身のために行うこともあるが、多くは天皇や貴族への奉仕である。反閇では最初に玉女を呼び出して目的を伝え、呼び出す際には禹歩を踏む。最後は6歩歩いて振り返らず出発するという。※上記刀禁呪の他に、心身を清める「浄心呪」、「浄身呪」、さらに転地を清める「浄天地呪」が道教から伝来されている。

10)禹歩(うほ)
禹歩は主に魔除けや清めの効果があるとされる道教の歩行術である。相撲の四股やすり足、神道の所作のルーツともされている。禹歩には様々なバリエーションがあるが、共通している事は三、七、九などの北斗七星や日月の運行、易の八卦などと関わりの深い歩順で行われる。また、後足が前足を越す事が無いように、摺り足のような歩行法をとる。「魔を祓い、地を鎮め、福を招く」ことを狙いとしており、奇門遁甲における方術部門(法奇門)では、術を成功させるために行われていた。また禹歩は、後述する呪文の「九字」を唱えながら行うのが最良ともされている。

11)身固(みがため)の呪法
呪詛がかかった人や衣等に対して、魔や穢れを祓い、呪的な守護を行う呪術。「宇治拾遺物語」には、晴明が式神を放たれた若き少将の身を抱き、身固めの呪法を行うと、式神を放った陰陽師に呪が跳ね返った、との記述がある。しかしここに記された「身固めの呪法」とは、後述する禁忌、つまり人との接触を避け自宅謹慎する作法のことではないかと指摘する研究者もいる。

12)鬼門封じ
陰陽師は風水師でもある。「鬼門」とは東北の方角(艮)のことで、陰陽道では鬼が出入りする不吉な方角として注意が払われた。この方角に鬼門除けといわれる神仏を祀ったり、桃の木を植えたりして「鬼」(邪気・邪霊)が敷地内へ出入りしないように、陰陽師が守護符等で結界を張った。例えば、京都御所も鬼門にあたる角の部分は凹んでおり、これもかつての鬼門封じの結果であると言われている。現代風水でも、家の鬼門にあたる方角に対してはトイレや風呂、玄関といったものを作ることを忌み嫌う風習が残っている。また、鬼門の真裏にあたる南西(坤)の方角を「裏鬼門」と呼び、この方角も注意が払われたが、邪気の侵入口のメインは「鬼門」とされ、陰陽師たちは警戒した。

13)穏形術(おんぎょうじゅつ)
道教、密教にある術で、自分の姿を相手から見えなくする術といわれている。現代風に言うなら、不可視結界術であり、一種のテレポーテーション・テクニックといったところだろうか。ただ、ヒマラヤ聖者による、同様の術が実在しているという説もあり、呪術・霊術に長けた陰陽師であれば、行えたとしてもおかしくはない。ただし、すべての陰陽師が体得してたのではないと考えるべきであろう。忍者の「微塵隠れの術」といった身隠し術は、この応用であると考えられる。

14)射腹蔵鈞の術(しゃふくぞうきんのじゅつ)
現代でいうなら「透視」、「霊視」にあたる。物質の中身を見通す透視能力、さらには人の前世や霊的要素を視覚的にとらえる能力である。賀茂忠行が天皇の前で透視能力を発揮したことや、安倍晴明が賀茂忠行とともに出かけた際に、鬼神(この場合は死者たちの霊と考えられる)と出くわし、それを二人が霊視し、さらに忠行が穏形術によって、鬼から見えなくしたことが知られている。これらは訓練で多少身に付くとしても、多くは生来の超能力に拠る部分が強く、陰陽師であったとしても限定された者の術であろう。

呪文・真言類

陰陽師が用いた主な呪文・真言などを見ていこう。呪文も呪術同様にその多くは、道教、密教の真言や修験道などに由来するものである。

1)急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)
これは、中国漢代の公文書の末尾に書かれた決まり文句で「急いで律令の如く行え」の意であり、つまりは「急いで事を行え」という命令句である。この急急如律令は単独の呪文ではなく、例えば、「祓いたまえ、清めたまえ、急急如律令」、「六根清浄、急急如律令」、「急急如律令呪符退魔」など、成し遂げたい目的と合わせて唱えることで、それを早く実現させよ、と願をかける呪文である。陰陽師のみならず、密教、修験道でも使われる。

2)九字(くじ)
臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前
(りん・びょう・とう・しゃ・かい・じん・れつ・ざい・ぜん)
これらは九字真言、ドーマンとも言われる。「山に入る際に邪気をかわす呪文」をその起源としており、九文字の意味はそれぞれ「青龍」・「白虎」・「朱雀」・「玄武」・「匂陳」・「帝后」・「文王」・「三台」・「玉女」の意を表す九星九宮のこと。陰陽道、修験道、兵法、密教などで即効性のある呪文として広く使われるようになった。一気に唱えることで一切の災厄と魔物から身を護る最強の呪文とされ、これを唱える際には、両手で印を形成して唱える剣印の法と、手刀で四縦五横に「九字を切る」破邪の法があるが、陰陽師は破邪の法を用いる傾向が強かったようである。この作法部分に関しては、日本独自体系であるようだ。

3)その他の呪文
●陰陽師が毎朝唱えていたとされる呪文
「元柱固真、八隅八気、五陽五神、陽動二衝厳神、害気を攘払し、四柱神を鎮護し、五神開衢、悪鬼を逐い、奇動霊光四隅に衝徹し、元柱固具、安鎮を得んことを、慎みて五陽霊神に願い奉る」
「がんちゅうこしん、はちぐうはつき、ごようごしん、おんみょうにしょうげんしん、
がいきをゆずりはらいし、しちゅうしんをちんごし、ごしんかいえい、
あっきをはらい、きどうれいこうしぐうにしょうてつし、がんちゅうこしん、
あんちんをえんことを、つとみてごようれいしんにねがいたてまつる」
※これで定型というわけではなく、適宜内容や信仰する神様によって内容・構成は変更される。
●南無成就須弥功徳神変王如来
なむじょうじゅしゅみくどくしんぺんおうにょらい
●縛久羅仙、久羅仙且主結願菩提羅且那 ソワカ
おんばくらせん、くらせんしゃしゅけちがんぼだいらしゃな ソワカ

護身作法・禁忌

陰陽師の吉凶判断や指導によって、天皇や貴族たちはさまざまな作法・禁忌を実践した。また、陰陽師も呪術とは別に、自らが行うさまざまな作法を重要視した。それらの作法・禁忌を見ていこう。

1)物忌み(ものいみ)
「物忌み」とは謹慎することである。陰陽師が占術の結果、不吉な予兆を感知した際などに天皇や貴族に対し「物忌み」を提案する。それを受けて貴族たちは自宅に謹慎し、人との接触ひいては不吉との接触を回避する。また神道においては、祭祀を執り行うにあたり一定期間飲食や行為を慎み、不浄を避けて心身を清浄に保つことも「物忌み」である。

2)祓い(はらい)
「物忌み」よりさらに積極的に、凶兆や魔からみを守る、あるいは身を清めるのが「祓い」である。陰陽道が盛んな平安期などには特に頻繁に行われ、月のうち日を定めて「一ノ祓」、「八ノ祓」、「望月ノ祓」、「晦(みそか)ノ祓」などが行われた。「鳴弦(めいげん)」や節分の豆撒きのルーツである「追儺(ついな)」、「名越[夏越](なごし)の祓え」も陰陽道の代表的な祓いである。ちなみに、「なごし」という呼称名は、神様の気持ちを「和らげる」という意味の「和(なご)し」からきていると言われている。京都上加茂神社・下鴨神社、大阪の住吉大社の夏越祓いなどが有名である。かつては、一年を二つに分け、六月晦日と十二月晦日があった。このどちらの晦日も、神への感謝を示し物忌みの日、祓いの日と考えられた。

3)方忌み(かたいみ)・方違え(かたがええ)
神座を人が犯すことで祟られるのを避ける作法・禁忌である。例えば移動する際に向かう方角に対しての吉凶判断を陰陽師が行い、それに伴った行動をとる。「方忌み」は「凶方」を避けることである。凶方とは、凶星が住まう場所のことで、太白(金星)の精である「大将軍」「太白(たいはく)神」「金神(こんじん)」と呼ばれる神が座すとする。この中で金神だけは、中国由来ではなく日本独自の神である。ただ、金神の登場は11世紀末以降で、晴明の時代ではない。もし誤って金神の方向を犯せば、本人を含め近しい人が7人死ぬという「金神の七殺」といった迷信めいたものが信じられていた。「方違え」とは、多くの説では「迂回説」として解説される。それは、凶事を避けるため一旦違う方向に迂回し、目的地に対する方位を変えながら目的地を目指すもの、という説だ。しかし「方違え」は、移動の際の方角だけでなく居住地を決める際にも指摘されていたことから、「その方向の場所に行ったり、住んだりすることをやめる」というものだったとする説もある。

祭祀

陰陽師は祭祀を統率することも重要な職掌・職責であった。また祭祀の進行においては、これまで紹介したようなさまざまな呪術も取り込まれている。

1)泰山府君(たいざんふくん)祭
泰山府君祭は道教の祭祀である。泰山府君とは中国の泰山の山神の事で、人の寿命や福禄を司る神とされ、閻魔大王の書記とも言われている。泰山府君祭は穢れを祓い、人の命を司る泰山府君神に延命を願う祭祀である。安倍晴明によって泰山府君は陰陽道の主神とされた。祭祀は土御門家(安倍家)の陰陽師が行い、天皇は自らの衣裳、手鏡、金属、木、紙などで出来た人形(ひとかた)に息を吹きかけて体を撫でて穢れを移しましたとされる。

2)天曹地府祭(てんちゅうちふさい)
六道冥官祭(ろくどうめいかんさい)とも呼ばれる。泰山府君祭と内容の差異はほとんどないようである。ただし、泰山府君祭が天皇の在位中に天皇の意思により何度も行われたのに対し、天曹地府祭は天皇践祚(てんのうせんそ)など交代時期に一度だけ執り行う祭祀であった。「天曹地府」とは、天帝をはじめとする神々の役所のことを指す。陰陽師は新しく即位した天皇を天界の神々に引き合わせ、「黒簿」という寿命などが書かれた書類を書き換えさせる。この「黒簿」から天皇の名前を削除し、生者の名簿に書き写し、災いを除き、天子の延命と国政の安泰を祈願する。

3)御霊会(ごりょうえ)
不慮の死、謀反処刑者、失意死、など、無念の死を迎えた者の御霊(ごりょう)による祟りを防ぐための鎮魂儀礼である。御霊祭とも呼ばれる。平安時代、不慮の死を遂げた者の死霊(しりょう)=怨霊(おんりょう)を鎮めて「御霊」に変えることが目的である。学問の神として著名な京都の北野天満宮は、本来は大宰府に左遷され失意の内に死に怨霊と化した菅原道真公を鎮め、神として崇める為に建立されたとされる。

4)追儺(ついな)
現代の「節分」の起源とされる天皇の穢れ祓いの儀式で、大晦日に宮中で行われた。追儺は、金面に四眼の面をつけた方相氏が、矛や盾を持って、宮中にいる邪鬼を祓う所作をしながら回る。陰陽師が卜占で、どの場所がどういう鬼神で穢れているのか、それをどう祓うのかなどを占い執行した。

5)五龍(竜)祭
「五龍(竜)祭」の目的は、陰陽師による「雨乞い」でありその意味では、祭祀であり呪術でもあるといえるだろう。「五龍(龍神)」を祀って雨乞いをするというもので、龍は古来より、知力・霊力の象徴であるだけでなく、水を司る「水神」としても崇められてきた。ちなみに「五龍(竜)祭」の成果のいくつかが、以下のように古文献に見られる。「十四日、丙申。終日陰る。時々微雨下る。夜に入りて、大雨有り。右頭中将、仰せて云はく、晴明朝臣、五龍祭を奉仕するに、感有り、被物を賜ふ、と云(々)。早く賜ふべきなり。雷声小さきなり。」(御堂関白記全註釈 寛弘元年)/「寛弘元年七月十四日(ユリウス暦に換算して1004年8月2日)五龍祭執行により夜大雨が降る」典拠:『御堂関白記』(「安倍晴明公(晴明神社編)」p199)。また、「五龍(竜)祭」は熊野系修験道と密教にルーツを持ち、龍王思想が降雨の呪力があるとされる密教降雨術に由来すると考えられる。

6)その他の祭祀
祭祀の詳細な内容は不明だが、陰陽師が執り行った祭祀は歴史資料の中に見られる。『延喜式』には宮中における陰陽師の司った祭りの記録が以下のように記されている。それによれば儺祭(節分・鬼やらい) や庭火・竈神の祭、御本命祭、三元祭などが挙げられている。また『文肝抄』にはこの他、五帝四海神祭、北極玄宮祭、三万六千神祭、七十二星鎮祭、西嶽真人祭、 大将軍祭、河臨祭、霊気道断祭、招魂祭など、種々の陰陽道祭があったことが記されている。

陰陽師の必携道具

陰陽師は占術、呪術を施す際に、さまざまな道具を活用した。それらの品々を見ていこう。

1)六壬式盤(りくじんちょくばん) 「六壬式占」を行う際のツール。「地」を表す四角い方盤に「天」を現す天盤がついているもので、これを利用し様々な吉凶判断を行った。また式神の項でも触れたが、単に式占を行うだけでなく、呪術をする際にも活用したと見られる痕跡もあることから、まさに陰陽師にとって最重要ツールだったともいえるだろう。

2)天球儀(てんきゅうぎ)・渾天儀(こんてんぎ) どちらも現代で言う地球儀である。これら天体観測ツールは、陰陽師ではなく天文博士のツールである。しかし、マルチな才能を発揮する陰陽師は、これら天文観測ツールも駆使したとされる。陰陽師の時代は流れ星は不吉な兆し、彗星は天変地異の予兆であったし、また、占星術的なこともこのツールを使って行われていた。

3)勾玉 まがたま すべての陰陽師が勾玉を所有したとする証左はないが、古来より魔よけの守護品として知られ、陰陽の「陰」(つまり月の神)の象徴であり、天皇家の「三種の神器」のひとつである勾玉を陰陽師が所有していたとしても不思議はないであろう。

4)烏帽子(えぼし)
陰陽寮所属の陰陽師のステータスシンボルである。おそらく、法師陰陽師、民間陰陽師との差別化を誇張したものと思われる。江戸時代以降、土御門家は全国の陰陽師を支配する権利を確立させ、陰陽師としての営業許認可を与える立場になるが、その際の免状には「烏帽子をかぶってもよい」という項目もあった。

《あ~お》の心霊知識