因果応報とは、自分が今までにしてきた言動の結果が自分に返ってくる、という考え方である。
インド思想と仏教によって礎が築かれ、各地で発展していった。
よく挙げられるのは「不倫をすれば、自分も将来伴侶に不倫(浮気)される」「誰かをいじめたなら、自分もどこかでいじめられる」といったものだろう。
そのようなパターンもままあるが、それだけとは限らない。
以下にその詳細を記す。
善因=倫理的によい行動をすること
悪因=人に迷惑をかける言動をすること
自因自果=自分の行いが自分に返ってくること
祖先因縁=自分の血縁・先祖の因果を受けること
地域因果、民族因果=自分の住む地域や民族の行いが返ってくること
その他、人類全体が祖先から受ける因果応報もあると考えられている。
元々、因果応報とはインドのバラモン教やウパニシャッド哲学の思想の一部である。
『人の魂は永遠に再生再死を繰り返す輪廻転生の中にある。今の人生は前世のカルマ(業、行為)の果報であり、今世の所業は来世に現れる』というものだ。
全てのカルマを昇華すると魂は輪廻の輪から解脱し、永久不変の幸福の地へ導かれるとされた。
仏陀はインドに生まれた仏教の開祖であるため、多分にバラモン教・ウパニシャッド哲学の影響を受けている。
仏教は「生きるとは苦である」とし、困難との対峙方法によって輪廻先が決定するとした。魂は因果に応じて六道(人界、天界、地獄、餓鬼、畜生など6つの世界)を輪廻し、最終的には解脱を目指す。
己を深く洞察し、煩悩を捨てて生きることを奨励している。
また仏教では、因果は縁起説によっても語られている。
「風が吹けば桶屋が儲かる」と言う諺がある。自分の巻いた種は思わぬところへ影響を与え、意外な結果を巻き起こすことがある、という意味だ。
このように全ての魂や事象には繋がりがあり、自己の中で帰結するとは限らない。生命は独立してあるものではなく、互いに相互相関しあって存在するという考え方である。
すなわち、因果応報についても自分の言動のみでなく、関わる全てのものに内包する「因」の影響を受けて、様々な「果」が生まれるとしており、人間社会の複雑さを説いた。
仏陀は中国に渡り、易経や道教と混ざって新たな発想が生まれた。
それは輪廻に特化したもので、現世の苦しみは全ての前世に魂が悪業を働いたせいであり、今生をよく生きることで来世は幸福な人生が待っている、とするものである。
当時の中国は、多民族がぶつかり合う戦乱の世にあった。
混乱した情勢においては、「正直者が馬鹿をみる」とか「憎まれっ子世にはばかる」というような無秩序が当たり前であったのだ。
しかし、心あるものが思いやりを持ち倫理を尊んで生きるため、知恵のひとつとして因果応報の言葉のなかに「今世で恵まれなくても、善性を大切にする意味がある」という解釈をしたのだ、とされている。
全ての事象に因果は存在する。
ただ「応報」で利得を得るために言動をコントロールするのはあまり意味がない。
出来事の正誤は簡単に決められないからだ。今はマイナスと思える事でも、長い年月で見ればよい結果をもたらす可能性がある。
それよりは善因を受け取ろう、悪因を避けようとする心のあり方に目を向けなくてはならない。
そのような卑しい発想を捨てることが、悪因を作らない秘訣である。
今、自分へ与えられたものに感謝し、野の花のようにただ生きることが肝要だ。