真霊論-御教

御教

御教とは、仏教の教えの元となる「経典」「仏典」の重要な一部で、釈尊(仏陀)が説いたとされる説法であり法(ダルマ)とされるものである。
一般的には、法事などの際に僧侶が死者の霊に語り聞かせるものとして知られている。
御経は正しくは「経蔵」と呼ばれ、「律蔵」、「論蔵」と合わせて「三蔵」と呼ばれる。「三蔵」の違いは以下の通りである。
1「経」:釈尊(仏陀)が説いたとされる教義、言葉であり法(ダルマ)。 
2「律」:教団の規則の集成で修行者が守らなければならない戒律。 
3「論」:弟子たちによる教えに対する解釈書 
この「三蔵」に1~3の解説書である「疏(しょ)」を加えて「一切経または大蔵経」と呼ぶ。
「経」はサンスクリット語の「スートラ」(糸・紐)が中国において「経」と漢訳されたもので、「経(たて)糸の如くに書き込まれた典」という意味がある。
御経を含む「経典」は大きく「原始仏典」と「大乗仏典」に分かれるが、日本に入ってきているのは「大乗仏典」である。
代表的な経典として、法句経、阿含経、般若経、維摩経、涅槃経、華厳経、法華三部経、浄土三部経、金剛頂経などが挙げられる。

「経典」の信憑性

「経」は「釈尊(仏陀)が説いた言葉」とされるが、果たして本当にそうなのか、疑わしい部分が多々ある。
それは、釈尊(仏陀)が実際に説法を行っていた時代には文字文化が無かったため、日本に伝わっている「大乗仏典」のすべては、仏陀の死後、数百年経った後に、弟子たちの「驚異的な記憶力の伝承」によって、記されたものだからである。
何世代にも渡って、記憶が正確に伝承されるはずはなく、また、写本字における書き間違いや、途中では弟子である高僧たちが、自らの考えや悟りを盛り込む可能性も十分にあるのである。
そのため研究者からも、特に「大乗仏典」やその中でも、般若経典群、法華経、華厳経などは、は正確な仏陀の説法とは言い難い、とする「大乗非仏説」「大乗偽経説」は根強く指摘されている。
その一方で「原始仏典」には、「パーリ五部」(パーリ語経典)および漢訳の「阿含経典群」があり、その一部は釈尊の言葉を比較的忠実に伝えているといわれる。
「原始仏典」は「上座部仏教」に伝わったパーリ語の経典である。
仏教の伝道は大きく二つに分かれており、「上座部仏教」はスリランカやタイ、ミャンマー等の地域に伝わった。
一方の日本は、「大乗仏典」を伴う「大乗仏教」が中国経由で伝わったのである。
「上座部仏教」を「小乗仏教」と呼ぶこともあるが、これは一種の差別用語なので注意すべきである。
この呼び方は「大乗仏教」派が、「上座部仏教」を偽物として見下し「小乗」と侮蔑の意味を加えて名付けた呼称である。
しかし、本当に釈尊の言葉か否かという「経」の信憑性においては、「上座部仏教」に伝わる「原始仏典」の方が、明らかに信頼できるものとされているのである。

般若心経の信憑性

「般若心経」は、御経の中でも一番ポピュラーなものである。
それはわずか300字足らずの御経の中に、「大乗仏教の心髄・エッセンスが説かれている」として、宗派の垣根を越えて広く愛されているものだからである。
また般若心経で説かれる「空」という哲学が、科学者にも共感を呼ぶことから、しばし科学理論のモチーフになったりもする。
この「空」の概念を釈尊のものであるとしたのは、紀元一、二世紀ごろの弟子の1人、「竜樹(ナーガールジュナ)」である。
竜樹によって、大乗仏教の中心経典は「大般若経」となり、釈尊の教説の本質は「空」であるとされた。
「般若心経」は、「大般若経」のエッセンスをコンパクトにまとめたものである。
では、「般若心経」が説く空の哲学とはどういうものか。
「般若心経」では、まず、人間を現す五蘊「色・受・想・行・識」の全てが「空」であると説く
そしてこれを悟れば、「全ての苦厄から逃れられる」と説き、さらに世の中のあらゆるものを羅列して、最終的に「全てを実体の無い空」であると説く。
これが大乗仏教の般若心経が説く「空の哲学」である。
一方で、釈尊の言葉・哲学としてより信憑性の高い「原始仏典」における「空の哲学」はこうである。
「常によく気をつけ、自我に対する見解を打ち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越える事ができるであろう。このように世界を観ずる人を、死の王は見ることが無い」(スッタニパータ第5章1119 中村元訳)。
確かに釈尊は「世界は空」という哲学を打ち出してはいるものの、「般若心経」の「空の哲学」は、明らかに後進の誰かの主張が反映されたのか、かなり誇張された「空の哲学」になっている。
また、般若心経には「度一切苦厄」と言う言葉がある。
これは「五蘊を空と悟った瞬間、全ての苦厄を除くことができた」、という一文である。実はこの言葉は、七世紀の僧侶「玄奘三蔵」によって加筆されたものとされている。
なぜなら、玄奘版以前の般若心経には「度一切苦厄」と言う言葉が無いのである。
つまり、般若心経の真髄とも言うべき「度一切苦厄」が、玄奘三蔵による加筆であれば、般若心経が本当に釈尊の説法によるものか、という信憑性は多いに疑わしいものとなり、「偽経」とされてもいたし方がないのである。

釈尊の教えのエッセンス

偽経か否かをある程度判別するのに役立つのは、釈尊の教えのエッセンスをしておくことであろう。
もしそれに反することが唱えてあれば、それは「偽経」と考えていいものである。
●「無常、苦、無我」
「無常」とは「諸行無常」であり、世の中の全てのものは移り変わっていくもので、恒常的なものはないのだ」という哲学である。
「苦」とは「一切皆苦」であり、「無常なものは苦の原因になり、人生の全ては苦である」という哲学である。
「無我」とは、「諸法無我」であり、「自分が無ければ世の中の全てのものは存在せず、あらゆるものは自分を無我とすれば存在しない」という哲学である。
この「無常、苦、無我」は、釈尊の教えの重要なエッセンスである。
●死後世界と輪廻転生
法事などで死者の霊に対して読経されることから勘違いされやすいが、釈尊は意外にも「死後世界」に関しては一切言及していない。
また、弟子たちにも死後を語ることは禁じている。
つまり「仏教」とは、「いかに今生を生きるか」に終始徹底した教えであり哲学である。
ましてや「来世」が来るとする「輪廻転生」(生まれ変わりとしての輪廻転生)があるとも一切語っていない。
もし「死後世界」を描写する、あるいは「輪廻転生」に言及するお経があれば、それは釈尊によって説法されたお経ではない、偽経である。

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