言霊とは、言葉に宿っているとされる霊的な力のことである。とくに、日本において古くから信じられている考えかただといえる。
言葉に特別な意味を見出すことそれ自体は、世界中の文化に共通の傾向である。
多くの宗教において預言やそれに類似する存在が確認されていることや、それを記したものが教典として崇高で不可侵のものとして扱われていることからもそれはわかる。
しかしながら、一般にそうした霊的な力が宿るのは、神やそれに準ずる存在が発した言葉に限定される。神聖な存在から発せられた言葉だから、崇めるのである。これは不思議なことではない。聖書は神聖だが、民間伝承が必ずしもそうではない点に、この傾向は顕著にあらわれているといえよう。
ところが、古代日本から伝わる言霊の考えかたは、これとは明確に一線を画すものであるといえる。
日本では、ただの人間の言葉にも霊的な力が宿るとされてきたのだ。
この背景には、万物に神が宿るとする日本固有の文化とも深い関連があると考えられるだろう。森や雨や火や、無形のものにすら神が宿るのだから、人間の社会生活の根幹をなしている言葉にも神が宿ったとして、おかしなところはなにもない。
また、こうした言葉への強い意識が、日本語文化の発展に与えた影響も計り知れない。
上記のように、言霊は、「言葉」に宿る霊的な力のことだと説明されることが多い。しかし、これは厳密にいえば、「声に出された言葉」に宿るものだといえる。
書き言葉=文字はあくまでも記号であり、インクの染みのようなものでしかないのである。それが声帯を伝って「声」として発せられた時点で、はじめて特別な力が宿るというのが、言霊の考えかただ。
言霊の例として最も有名なものは、祝詞や忌み言葉であろう。
祝詞は、儀式と不可分のものであり、言葉ひとつひとつに意味があるものである。それらの言葉は、正確に読み上げられることで祝詞としての役割をなすことができる。すなわち、わずか一か所すら誤読は許されないのである。祝詞の読み間違えは厳しく注意される。
反対に、忌み言葉は、けっして口にしてはならない。
一口に忌み言葉といっても、その発生には二つのパターンがみられる。ひとつは、不吉な言葉には不吉な霊が宿っているため、口に出さないようにしようというものである。もうひとつは、畏敬の念を表すために、口にすることを憚られるというケースだ。
前者の例としては、結婚式における「別れる」、「切る」、「離れる」、「壊れる」といった言葉や、受験生に対しての「落ちる」、「滑る」、「転ぶ」、「散る」などの言葉がよく知られているだろう。これらの言葉をそれぞれの場で口にした場合、その人は非常識な人間として扱われるはずである。
また、「死ぬ」という言葉を日常では人間に対してほとんど用いず、「亡くなる」や「逝く」といった表現をされることも有名だ。こうした言い換えを、「ことかえ」という。「ことかえ」という用語は知らなくとも、不吉な言葉をやわらかく表現したり、婉曲に語ったりするシーンの多さは周知のとおりであろう。
日本語表現の豊穣さは、この「ことかえ」がもたらした部分も少なくないはずである。
他方後者の例としては、江戸時代までの日本では、高貴な出自をもつ者は本当の姓をめったに名乗らなかったことが挙げられる。
明治以降、誰もが苗字を名乗るようになってからは、姓と苗字は混同されるようになってしまった。だが、本来は両者はまったく別のものなのである。
たとえば徳川家康は、フルネームだと徳川次郎三郎源朝臣家康になる。このとき、苗字は「徳川」で姓は「源」となる。しかし、家康のことを源という本姓で呼んでよいのは、家康よりも身分があきらかに上の者にかぎられた。しかし将軍になってからの家康に、それ以上の身分の存在などないのはあきらかであろう。実質的にはタブーであった。
この、高貴な名を隠すという感覚は、現在でも皇室には強く残っている。
たとえば今上天皇の名は「明仁」である。だが、日本国内でふつうに生活している範囲においては、今上天皇のことを明仁と呼ぶ場面にはまずお目にかかれない。天皇より上の身分にあたる者はいないのだから、これも当然である。
もしあったとすれば、それは天皇制反対論者などが、意図して貶めて呼ぶケースのみであろう。
その一方で、欧米諸国ではこの感覚をあまり共有できないのか、「Akihito」とごく自然に呼んでいることが多い。ここに、文化の差をみてとることもできよう。
とはいえ、世の中の文化の多くがそうであるように、人間が生み出した文化には一定の共通項があるものである。
言霊にかんしても、まったく同じとはいえないまでも、類似した文化は散見できる。
名前のもつ力については、中国の『西遊記』におけるエピソードの根底にも共通の思想がみてとれる。
金角大王および銀角大王が持っていた、紅葫蘆という瓢箪のエピソードがそれだ。これを向けながら相手の名前を呼び、その相手が返事をすると、たちまちその相手はこの瓢箪のなかへと吸い込まれてしまう。
これは、まさしく言霊の思想を体現したエピソードだといえよう。
また、キリスト教における唯一新の名がけっして口に出しては呼ばれないことも、言霊の思想と通じている。これの特徴としては、その正確な読みかたすら統一されていないほどの徹底ぶりが挙げられるだろう。
「YHVH」や「YHWH」、「JHVH」などと表記されるこの神の名は、日本語においても「」ヤハウェ」や「ヤーウェ」、「エホバ」あるいは「アドナイ」など、宗派によってまったく統一されていない。だが、けっして呼ぶことはない名なのだからそれで問題ないのである。
この風習は長らく不文律として続いてきたものであったが、2008年の6月にはバチカンの教皇庁典礼秘跡省が、はっきりと「教皇の指示により神聖四文字で表記されている神の名を典礼の場において用いたり発音したりしてはならない」という指針を出している。
日本の教会でも、基本的には固有名を出さずに「主」と呼ぶことになっている。
ほかにも、自己啓発などの分野でも言葉の力は強く意識されているようである。自己啓発セミナーには、ほぼ必ず、参加者自らが自分の言葉でなにかを話す場面がやってくる。
自分のことを自分の口で語ることによって、より自分自身に気づくことができるという論法である。その真偽はともかく、言霊思想の影響が皆無だとはいえないだろう。
また、起業家などがよく「成功の秘訣」として語ることに、「夢や目標は日ごろから口に出すようにする」というものがある。具体例は出さないが、検索すれば同様のことを語っているベンチャー実業家は山ほど見つかるはずだ。
口に出そうと出すまいと、夢や目標の実現に直接かかわってくるのは努力や運であるはずなのだが、それでも多くの人がこのことを肯定する。
これは自己暗示にかける意味もあるが、自己暗示という発想がそもそも、言霊の思想の影響下にあると考えられる。
さらに、癒される声として、2000年代のヒーリング・ブームのころからよく騒がれる「1/fゆらぎ」という概念も、疑似科学の皮をかぶってはいるが、実態はまさしく言霊だ。
このように、意識してかせずにか、言葉がもつ、科学では解明されていない力についての言及は21世紀の今なお少なくない。
さまざまな形に姿を変えて、現在も言霊思想は息づいているのである。
言霊信仰とは、日本特有の信仰である。
文字通り、言葉、特に音声に出して発するひとかたまりの文・あるいは単語には魂が宿っているから、よい気を持つ言葉を発して、悪い気運を持つ言葉は避けようとする思想だ。
■言霊信仰のいくつかの論拠
1 「ことだま」という言葉に内包された意味に端を発するもの
「ことだま」という言葉に漢字を当てはめた場合、「こと」には「事・言」が、「たま」には「魂・珠」のそれぞれ2文字が該当する。
「事」には事象や現象、「言」は言葉、「魂」は命、魂、「珠」にはつながり、という意味がある。
すなわち、「言葉は、事象や現象を表現するものである。そしてそれを声に発することで、言葉そのものにも命が宿り、その魂は事象が起こった空間と人とをつなぐ。また、他者や他の現象とのつながりをも創造するパワーを秘めている」という考えかたが生まれたのではないか、と推測されている。
日本人は古来より、狭い島国の中でひしめき合って生活し、歴史を紡いできた。そのため、他の民族よりも関係性を重視する傾向にある。点と点を結ぶように、言葉と現象、そして自分達の幸不幸を繋げていったのかもしれない。
2 中国文化への対抗
言霊とは、基本的に「声に出した言葉に宿る」ものとされているが、これには理由がある。
大和朝廷の時代より、遣隋使や遣唐使、その他民間の文化人によって、中国から洗練された文字文化が流入してきた。日本では発達しえなかったそれらを当時の人々は驚きを持って迎え、そして模倣し取り入れていった。
中国の持つ文字文化への対抗心、ルサンチマンとして「中国の言葉は文字文化だが、大和(日本の)言葉は音声に命が宿る」という発想になったのだとされる。いわば劣等感が生み出したと言ってもよい。
つまり、日本に古来より伝わる思想というよりは、他文化に対する自分達の文化のポジショニングを表明した結果と言うのが正確であろう。
3 アニミズムから生まれたもの
神道やその他の土着信仰において、日本では、全ての自然やものには精霊が宿っているという、アニミズムの思想が根付いている。
言霊もまさにそこから生まれたと考えられる。
まず、何らかの言葉を発するとそれは精霊に伝わる。そして言葉を受け取った精霊が現象を動かしていくのではないか、という思想だ。
例えば雨乞いをするとしよう。呪詛や祝詞などで水や雨を司る神や精霊へ、念を届ける。それを聞いた精霊が雨雲を呼んだり、台風を招いたりするという流れだ。
言葉そのものに命があるというよりは、精霊を介して、間接的に現象を引き起こすと考えられている。
言霊診断とは、ある言葉や文章に内包された意味を読み取り、その人や物象・事象などの性質を明かしていくものである。
■言霊診断の種類
言霊診断には大きく分けて2種類ある。
【「聖書占い」や「御神籤」に端を発するもの】
音声から考えるというよりは、まず現象・物象があり、そこへ当てはまった偶然の言霊を見て吉兆や運命を読解するという、どちらかというと西洋的な言霊の診断方法である。ただ、日本にも御神籤などで古くより用いられていた歴史がある。
「聖書占い」とは、聖書のフレーズをランダムに選び、その文章やストーリー、聖句などを自分の現在の状況に照らし合わせて解釈するというものである。
その方法は、まず聖書を持つか、決められた台やテーブルの上において、占いたいことを強く念じる。それから聖書を持ち、適当にページを開いて指を置く。そこに書かれている言葉を福音、あるいはメッセージや忠告として受け取るというものだ。聖句という多義的に解釈可能な言霊を用い、そこに具体的、現実的な意味を与えて診断する。
キリスト教では占いそのものは禁じられていた。だが、庶民の間に聖書が普及してからは、まことしやかに語り継がれてきた占い方法である。これが転じて、自分の愛読書から一節を探し出す方法や、言霊診断専用の本なども出版されている。
日本では「御神籤」がこれに該当する。これも偶然性、シンクロニシティを利用した診断方法である。このような思考体系は密教系を信仰を中心に世界各地に存在する。
【言葉の音声そのものに意味を与え、読解するもの】
主に、日本語の母音の響きに意味を与え、言葉の並びに、その言葉が直接表現する事象のみならず、哲学的・精神的な意味を読み取るもののこと。これは古事記の時代から脈々と受け継がれてきた音声学であり、日本独自の言霊診断方法と言える。
・それぞれの母音に象徴される意味
う段・・感覚、欲望を表す。また、産業や経済活動とも関わりが深い。
お段・・経験、知性、好奇心を表わす。思考、科学やその他学問なども含む。
あ段・・感情、感受性を表す。直感力、宗教や芸術、思想、哲学など。
え段・・選択、叡智、実践、実行力、慈悲を表す。道徳心、政治的発想なども司る。
い段・・生命、超然、創造力を表す。意思、宇宙、エネルギーなど。
(わ段は別)
ゑ・・知恵を表す。
を・・記憶、記録を表す。
例えば「ことば」という語の母音は「OOA」である。
ふたつのお段とひとつのあ段が入っているため、これには強い知性と、感覚や感情表現を司られているということが分かる。まさに「ことば」の意味そのものと言えるであろう。
このように、複数の母音の組み合わせを見て診断するというもの。
また、母音に内包された意味を細分化したものが子音だと考えられている。子音をつけることでもたらされた細かなイメージを元に、全ての50音に日本古来の神々の名を冠した文献も存在する。
文字そのものではなく、音にこそ魂が宿っているという発想から生まれた、日本の言霊思想の基礎となっている考え方である。
■母音に隠された言霊診断の思想、哲学的論拠について
母音の中に含まれている言霊は、語尾に「る」をつけると、より分かりやすく解釈することが可能だ。
また、「う、え、あ、お、い」という順番で言霊の持つ霊的なレベルは高くなっていると考えると、さらに深い理解となるだろう。これらの思想は古事記や日本書記に記載されている、
以下の言説を参考にして、身近にあるさまざまな言葉や名前に対し、母音の持つ言霊を当てはめてみると、その裏に含まれた真の意味を受け取ることができる。
・う段―「うる」
うる、とはすなわち「生る」又は「得る」と解釈することが出来る。何かが欲しいとか、自分のものにしたいという原初的な願望がベースだ。転じて、生きることに関する基本的欲望が込められている。
食欲、物質欲、睡眠欲、性欲、出世欲、承認欲求、自己愛を満たしたい気持ちなどは、羅列するといかにも下世話な印象だが、人間が生きていく上では決して欠かすことのできないエネルギーであり、生命の根本的な要求であることは否めない。
「う」や「うる」には全ての生命が現世で生き延びるためのパワーが詰まっている、と言えるであろう。
・お段―「おる」
おる、は「居る」と解釈される。
この字を分解すると「古」と「尸」になるが、それぞれの漢字は、「いにしえ、過去」と「しかばね、死体」という意味を持っている。
人は必ず過去があり、それを積み重ねて現在の自分がいる。もっといえば自然も人類も、膨大な過去の歴史や遺産の上に成り立っている。「おる」には、昔の記憶・人生そのものへの愛着や、歴史への興味・知的好奇心などが象徴されているのだ。何かを知り、理解するために「お」の響きは必須である。
つまり、この事象が起こった理由は何故か、何時からそのような状況になったのか、何処から生まれたのか、どのようにして検証、または法則化されたのか、などの知的な欲求の源泉となっていると言えよう。
「う」により基本的欲求を満たした人間が次に求めるのは「お」の経験や知性というわけだ。
また、過去の記録や記憶、歴史や科学などの検証には、常に観察眼と深い思考が要求される。今持っているよりも、より高い知性を育むための語でもあると考えられている。
ただ、強すぎる知性は敵も作りやすくなる、というのが難点かもしれない。思想のぶつかり合いは戦争などの悲劇にもつながりやすい。
・あ段―「ある」
ある、は「有る」という言葉によって象徴されている。これは「有りのままの姿」とか、「有るがままの状態」という意味を指しており、感受性や感情表現は、あ段によって高められると考えられる。
人間に与えられた他の動物と違う能力のひとつに、自然を美しいと感じられる心がある。自然の持つ機能的な美を美しいと思うことは、厳しい環境を生き抜く防衛本能となっていたためだ。そして、それらの性質や姿かたちを模倣することで芸術や文化、宗教などが生まれ、発展してきた。
また、芸術を創造する際には、冷徹なまでの客観性、観察力、たゆみない内省が求められる。
例えば、ピアノやヴァイオリンで美しいメロディを奏でるためには、楽器と自分の身体を相当精緻なレベルでコントロールできなければならないだろう。いい加減な奏法やフォームでは、到底人の胸を打つ音色を作り出すことはできない。
楽器の性質を知り、自分の身体の動き方を知ると、芸の技術を高めていくことが可能となる。要するに自分と自然の共通点や相違点を明らかにしていくことが何よりも重要な要素となるのだ。自分を知り他者を知ることにこそ美の境地がある。これは喜怒哀楽を感じる上でも大切な基盤となる。
自己探求により本来の自分、有るがままの自分を理解出来ればこそ、豊かな感情や芸術、宗教的思考を楽しめるというわけだ。
「有る」を深めれば深めるほど、自分と他人の間の境目が気にならなくなり、宇宙と一体化した自己や美の世界を生きることが出来る。
あ段を含む語には、このようなロマンが隠されているのである。
・え段―「える」
える、は「選る」というふうに読解される。
う・お・あ段の言霊を経て、え段へ到達できた言葉は、霊的にもかなり高いレベルの魂を持つと言えるであろう。
え段は、人生のあらゆる場面において欲求、知性、自己探求をバランスよくコントロールできる状態を示している。人間が生まれながらに抱える煩悩や悩みに振り回されることなく、状況に応じて適切な選択と実践が出来るようになるのだ。
いわば精神的に相当成熟したレベルにある言霊と言ってよい。
この段階になると、目先の現実的な出来事に振り回されてしまったり、逆に高揚しすぎて事象の本質を見失なったりすることは一切ない。そして本質的な意味で魂の自由、深い悟りを獲得している語なのである。
また、う、え、あ段、よりも余裕のある言霊のため、他者や他の事象、物象へ対して指導を行うものという側面も持っている。正しい道を教えたり、実践を提供したりする橋渡しのような使われ方をすることがしばしばある。物質的にも精神的にも、良いものを己だけで一人占めし隠しておくことはなく、周囲の言葉、ひいては物事と分かち合おうとする状態が生まれやすい。そうすることで、霊的に自分の言霊も周りも、より豊かになれるということを真に理解しているからだ。
・い段―「いる」
いるは「今(い)る」という解釈が出来る。
この世には、実にさまざまな生命が存在している。人間だけ見ても地域によって人種や民族は多種多様であるし、動植物、鉱物などにおいても同様だ。そして、これらのほとんど全てには、言葉を用いて名前が付けられている。「世界は言霊で構成されている」といっても過言ではないだろう。
しかし、違う人種や思想、異なる種類の生物だからと区別、もっといえば差別して隔たりを置くのは、結局は争いや破滅の萌芽になってしまう。ささいな、あるいは大きな違いにもこだわることなく、今目の前にいる、あらゆる生命に対して寛容である、という状態である。その存在を認め、尊重することがお互いを生かし合う事へと繋がる、という在り方だ。
例えば人間なら、せっかく生まれたからには、何かを得たいとか、成し遂げたいとかという気持ちを持つことが人生の節目節目においてあるかもしれない。しかし、そのように肩肘張って生きることは無意味だ。むしろ何もしなくてよいのだ。煩悩を捨て、ただ今そこで、流されるままに生きるだけでよい、それこそが本来あるべき生命の姿というものなのだと言える。そのような段階が「いる」という言霊なのである。
日常の雑事にわずらわされることなく、ただ超然とその日その日を生きる姿勢でそれは表現される。「いる」、すなわち生かし合うとは、争いや嫉妬などがない、真の意味で生命が輝く状態なのだ。
また、時間や空間に対してもこれらの感覚がそこはかとなく味わえるのなら、それは「いる」という言霊のパワーがなせる業といってよい。言霊を発しつつ、今いるこの空間、この瞬間に強く意識を向けることで、過去も未来も含む全ての時間や空間を大切に感じられる。