真霊論-キリスト教

キリスト教

世界三大宗教のひとつで信者数は世界最大。ヨーロッパ文明社会を形成していくうえでの中心概念となっていった。
『旧約聖書』と『新約聖書』(この2つを合わせて「聖書」と呼ぶ)を正典とし、隣人愛、愛(アガペー)、罪の赦しを説いている。
ユダヤ教から派生した一神教で、ナザレのイエスをイエス・キリスト(救世主。メシア。神の子)と信じた直弟子たちが宣教活動を始めたが、ユダヤ教主流はこれを認めず分離した。

教義(教えの内容・体系

キリスト教は一神教であり、どの教派も「聖書」がただ1つの教典である。神には、同一の本質を持ちながら区別され混同することのない3つの位格がある。それは、父なる神、子なる神(キリスト)、聖霊なる神の3つで、これを三位一体とする。
人間は生まれながらにして罪のある存在であるとし(原罪)、神であり人であるイエス・キリストが死をもってこれを贖い(このことによって神の人間に対する愛であるアガペーを顕している)、イエスをキリストと信じるものは罪の赦しを得て永遠のいのちを約束されるとする。
『キリスト教思想への招待』田川建三 著では、典型的なキリスト教の思想を、「創造論」、「教会論」、「救済論」、「終末論」の四代項目にして成立当時の背景に照らし合わせて解説している。

信条

キリスト教の信条(信教とも言う)は正統教義・正統教理を最も簡潔にしたもので、異端の教理を使徒の教義で識別することにより、教会から異端を追放するために作成された。洗礼式や礼拝の際に口に出して唱える。現在もキリスト教の主流な教派のほとんどがシェアしている。 最もメジャーな信条は、381年に成立したニカイア・コンスタンティノポリス信条と、ほとんど同じ内容でより簡略な使徒信条(西方教会で普及している。成立時期は不明。2世紀?4世紀頃ではと言われる)である。ラテン語版やギリシャ語版があり(ニカイア・コンスタンティノポリス信条)、また解釈は教会によって異なる。
例えばニカイア・コンスタンティノポリス信条には、神が三位一体であることやキリストが聖母マリアから処女生誕したを明記し、アリウス派(父と子は異質であるという唯一神教を主張した)、グノーシス主義(肉と魂の切り分けを否定。アダムを神とする。ちなみに今日、グノーシス主義とキリスト教とは、別個のものであると考えるのが主流である)などを否定した。
解釈の違いから東方諸教会が生まれ、また、カトリック教会と正教会の分裂のきっかけともなった。これをフィリオクェ問題と言う。
信条のおおまかな内容は以下の通りである。
神は三位一体である。父は天地の創造主である。子なる神イエス・キリストは父の独り子である。子は父とともに天地を創造した。キリストは聖母マリアからの処女生誕した。キリストは、自ら死に復活したことによって死を克服し、人類をもまた死から解く。キリストは再臨する。死者と生者すべてを審判し、その後、永遠に支配する。聖霊も神である。教会の信仰。理想的教会を実現することが信者の務めである。洗礼(バプテスマ)について。死者の復活と来世の生命について。
これらに加えて、ミサや聖体礼儀や聖餐などによりキリストの死(ないし犠牲)を記憶することも重要である。教義は教派ごとに若干違う。

原罪

原罪は、『創世記』のアダムとイヴ(エバ)の物語に由来している人類の最初の罪である。
アダムとイブは人類の始祖とされ、エデンの園において、自分たちを愛してくれる神の戒めを破り善悪判断の木の実を食べ、その罪によってエデンの園から追放され、死なない体も失った。以来人間は生まれながらにして肉としても霊としても神から切り離され、いわば人間の本性を損ね、神なしには克服できない罪のある存在となった。
ゆえにキリスト教の世界観では、人間の歴史そのものが楽園追放前の神に愛され神を愛するような神との親しき交わりの復活を目指す努力であると言える。罪は、木の実を食べたからではなく、主なる神の言葉に従わなかったことにある。主なる神の言葉によると、木の実を食べないことにより2人の命は永遠であるはずだった。
ほとんどのキリスト教の教派において共有される思想である。が、その解釈は教派によって異なり、神の望む通り2人が自由意志で行動するようになったと解釈することもあり(これはユダヤ教であるが)、また、原罪の概念がない教派もある(ぺラギウス主義など)。

聖書

『旧約聖書』
新約聖書に出てくる「古い契約」という言葉をもとに、2世紀頃からキリスト教徒によって旧約聖書と呼ばれるようになった。キリスト教以外の観点からは『ユダヤ教聖書』、『ヘブライ語聖書』、『ヘブライ語聖典』などに呼ばれることもある。古代イスラエル人・ユダヤ人の思想活動を多岐に渡って網羅している。
『新約聖書』 イエスや使徒たちの言行を記したものである。紀元1?2世紀にかけて書かれ、27の書が含まれている。イエス・キリストの生涯とその言葉(「福音」と言う)、初代教会の歴史(『使徒言行録』)、初代教会の指導者たちの書いた書簡からなり、『ヨハネの黙示録』を最後においている。
新旧という表現を回避するため、旧約聖書を『ヘブライ語聖書』、新約聖書を『ギリシア語聖書』とも呼ぶことがある。

キリスト教の異端

教義が少数派でなおかつキリスト教を自認する教派を、多数派から見て異端とすることがある。自ら異端となのるわけではない。モルモン教やエホバの証人などである。
歴史的には解釈の違いという観点も含まれていた。

【異端とされた諸派・思想の例】
仮現説(ドケティスム)……キリストはあくまで霊的な存在であり完全な人間化はなかったとする。
グノーシス主義……1?4世紀。物質と霊の二元論。
養子的キリスト論……2世紀、イエスは普通の人の子で洗礼を受けて神の子となる(エピオン派など)。
マルキオン派……2世紀。ドケティスム、グノーシス主義に近い。旧約聖書を不要とし新約聖書の神をまことの神とした。
モンタノス派……2世紀の小アジアで出現。禁欲的生活を呼びかけ過激さに物議をかもす。
モナルキア主義……3世紀、唯一神論ともいい、三位一体の神の解釈が正統派と違っていた。同属のものに、天父受苦説(様態的モナルキア主義)、サベリウス主義(様態的モナルキア主義の一種)、キリスト人間説(動態的モナルキア主義)も登場した。
アリウス派……4世紀。唯一神教を主張し、アタナシウス派に敗北。
単性説……4世紀、受肉したイエス・キリストは単一の性であるとし、両性説(キリストは神性と人性という2つの本性を持つとする)から否定された。
ネストリウス派……5世紀。キリストは神格と人格の2つの位格に分けられるとする。
ペラギウス主義……5世紀。人間の自由意志によって功徳を積むことで救われるとするもの。広く支持された。
万人救済主義……万人が神によって救済を受けるとする思想。
ボゴミール派 10世紀、全ての物質的なものを否定。グノーシス主義の影響を受けていると思われる。カタリ派(キリスト教色の民衆運動)に影響を与える。
ソッツィーニ派 16世紀。三位一体説やキリストの神性を否定して模範的人格とする。

歴史

【近世まで】
紀元1世紀、イエスの死後の弟子の動向が、直接的なキリスト教の起源である。現在の学説の主流では、この時期の教徒たちはユダヤ教と分離したという意識はもたなかったとする。ユダヤ戦争により70年にエルサレム神殿が崩壊すると、ユダヤ教とキリスト教は完全に袂をわかつた。
4世紀頃の古代教会組織に至るまでの詳細はいまだ不明である。6世紀には、現在の教会組織と役職、称号が固定した。
ローマ帝国内ででキリスト教が広がると、既存の多神教文化を批判し、皇帝崇拝を拒んだため、迫害され多くの殉教者を出した(迫害が大規模であったかは疑問視されている)。しかし普及し続け国教とする国も現れた。4世紀初めにミラノ勅令により公認され、その後ローマ帝国の国教となり、異教信仰が禁止された。
キリスト教は5回の大きな分裂をした。これらを「異端の糾弾」「東西教会の分裂」「カトリックとプロテスタントの分裂」として、分裂は2回とする立場もあるが、歴史観として中立とは言い難い。
1回目はアリウス派とアタナシウス派の分裂で、2回目はネストリウス派の離脱、3回目は非カルケドン派(東方諸教会。いわば単性論教会)の離脱、4回目は東西教会の分裂、5回目はカトリックとプロテスタントの分裂である。

【近現代】
中世末期の宗教改革の後、啓蒙時代に入ると、キリスト教のあり方が問われるようになる。理神論、不可知論、汎神論、無神論など、それまでなかった思想が登場、展開する。やがてフランス革命など市民革命によって西ヨーロッパ社会は脱教会化され、民衆はキリスト教から離れていった。マルクスの共産主義のように、キリスト教と競合する社会運動も現れる。こうしてキリスト教の影響力は以前ほどではなくなっていった。

なぜキリスト教は発展したか

キリスト教は、歴史的にみて、社会環境や世界情勢の変化にその都度対応していた。初期の段階でユダヤ文化外の異邦人に積極的に宣教し、異邦人改宗者に対してはユダヤ教の過酷な儀式や食物禁忌を緩めたため、ユダヤ教を超えて地中海世界にまでも広がりやすかった。
当時は既存の密儀宗教が流行していたが、キリスト教の聖餐式も、密儀宗教のひとつとして広がったとようである。
キリスト教は既存の宗教や体制に相容れず弾圧を受けたにもかかわらず、次々と国教化される。これについては、身よりのない者の世話を行い、病人や戦争によるけが人を看護し、死者は葬るような、人間愛を実践する救護施設など共同体組織を作ることに成功したからだと言われる(キリスト教的観点からの言であるが)。

日本のキリスト教

5世紀頃、中国でいう景教(ネストリウス派キリスト教)が日本に伝えられたとする説がある。
史実では、16世紀、カトリック教会の司祭、フランシスコ・ザビエルらによって宣教され、九州?西日本を中心に多くの信徒を獲得した。当時、キリスト教は「耶蘇教」(やそきょう)、キリスト教徒を「切支丹」(キリシタン)、キリスト教宣教師は「伴天連」(バテレン)と呼んだ。
織田信長は宣教師に好意的であったが、豊臣秀吉はバテレン追放令を発布した。しかし、秀吉の政策である南蛮貿易を優先するために黙認された。
【鎖国】
徳川家康も当初、キリスト教に対しては寛容な態度だったが、松倉重政とその息子の勝家がキリスタン弾圧の政策を続けていたところ、1637年には、百姓やキリシタンを中心とした島原の乱が起きた。この大規模一揆は最終的に、幕府の13万もの軍勢によりやっと鎮圧に成功する。
その後、禁教令が出され 、西欧諸国との付き合いにも慎重となり鎖国政策へと向う。以後キリスト教徒には、激しい迫害を受け根絶したかのように見えたが、長崎などで隠れキリシタンとして信仰を続けた。
1865年3月、できて間もない大浦天主堂で、フランス人神父(後に司教)の前に隠れキリシタンの女性が現れて信仰告白を行い(信徒の発見)、その後、続々と隠れキリシタンが詰めかけた。この「信徒発見」の知らせは欧米にも伝えられ教皇ピウス9世は感激して「東洋の奇蹟」と呼んだという。
その後、長崎奉行所と明治政府が迫害を始め、全国的にキリスト教弾圧が行われた。
【明治維新後】
欧米諸国からの強い抗議を受け、明治政府はキリスト教禁制の高札を撤去した。西洋の文化に触れる目的でも、キリスト教とその教会は日本人を魅了した。カトリック、プロテスタント、正教会とも、教会、伝道所を立てて公に宣教を行った。内村鑑三も信仰のあり方を唱えた。
カトリックやプロテスタントによる学校や病院なども建てられ、影響を受けるものも現れた。キリスト教文化の影響下でうまれた運動もあり、例えば神戸・灘での生活協同組合(現コープこうべ)などが挙げられる。
キリスト教に対する社会の環境は戦前を通じて厳しく、キリスト教徒にも靖国参拝が強制され参拝を拒むと官憲の追及を受け、また解散を余儀なくされる教派もあった。
【現代日本】
日本のキリスト教徒の概数は人口の1%を超えていないそうだ。そのうちほとんどがカトリックかプロテスタントで(それぞれ50万人)、正教会は1万人である(2001年時点)。
現代では、クリスマスやバレンタインデー、結婚式などで親しまれ、信仰とは別になじんできている。

《か~こ》の心霊知識