真霊論-血液型占い

血液型占い

血液型占いとは、鑑定する際の属性として、個人それぞれの血液型を用いる占いの方法のことである。占う事象はその日の運勢から相性、性格まで多岐にわたる。
日本においては、雑誌やテレビのワンコーナーなどでもよく紹介される占いであり、非常にポピュラーな存在となっている。「A型だから几帳面」だとか「AB型だから天才肌」だとかいった言説はよく目にしたり耳にしたりできるだろう。反対に、性格から相手の血液型を当てようと試みることもしばしばみられる。
ただし、これは日本特有のもので、海外ではまったく通用しないことに注意されたい。
大半の占いには批判がつきものであるが、なかでも血液型占いは、その著しい科学的根拠の乏しさと、それに反してあまりにもポピュラーでありすぎるがゆえに、批判する側の勢力も大きいのが特徴だといえよう。

血液型から導き出せるものと、導き出すべきではないもの

血液型は、原則的には人生の途中で変化するものではない。
まれに判定が変わるケースもあるが、それは、血液型の特徴が充分に現れる以前(生後まもなくなど)に判定したものが、大人になって判定し直したら違っていた、といったパターンがほとんである。また、医学的に判定の難しい稀少な血液をもつ者も存在する。
いずれにせよ、それは判定する側の精度の問題であり、固有の血液型そのものが変わったわけではない。
よって、タロット占いやおみくじなどのように、自分自身の意志が関与したりパラメーターが変動したりする種類の占いではない。また、手相占いや姓名判断のような、短いスパンでは変化しないが長期的には変化の可能性があるものとも違う。血液型占いは、四柱推命や西洋占星術のように、属性が生涯変化しない占いなのである。
すなわち、四柱推命などがそうであるのと同様に、血液型占いは先天的な要素を鑑定する占いだといえる。
にもかかわらず、しばしばテレビ等の血液型占いではその日ごとの運勢や恋人との相性なども占われる。占いの構造として、これはあきらかに矛盾を抱えている。
この点で、一般的には混同されやすいが、血液型性格分類と広義の血液型占いは区別して論じられるべきだろう。

二つの血液型占いと、その混同の危険性

能見正比古によって提唱された血液型性格分類は、文字どおり、持って生まれた血液型を個人個人の性格と関連づけて論じようというものである。分類する行為そのものをはじめ、それが可能だとする説も血液型性格分類と呼ばれる。
現在まで、この説は科学的根拠こそ否定されている。しかし一時的とはいえ、医学や心理学などの分野で議論されたことのある疑似科学の一種である。信憑性や妥当性を棚上げすれば、信奉者たちの主張はそれなりに論理的な形式をとっている。
また、性格という変化する余地の少ないものを先天的な要素によって占うという考えかたは、四柱推命や西洋占星術などの同タイプの占いと通じる部分がみられ、一定の論理性はあるともいえる。
一方、テレビなどにおける血液型占いは、その根拠や具体的な占い方法が示された試しがない。
先天的な要素による占いが、刻一刻と変わる短期的な運勢を占える理由は不明であるし、どのような手続きをとることによってその鑑定結果が導き出されたのかも曖昧である。同じくポピュラーな占いである十二星座占いが、書籍などでしっかりと理屈を解説していることとは対照的だ。
つまり、テレビなどにおけるインスタントな血液型占いは、疑似科学の域にすら達していないのである。単なるエンターテインメントというのが正しい。
血液型占いの問題点は、この両者をしばしば混同して語られてしまうことである(あるいは詭弁として意図的に混同しているケースもあるだろう)。
単なるエンターテインメントのはずが、疑似科学と関連づけて語られることで、さも科学的な占いであるかのような錯覚を与えてしまう。それに起因する社会問題も多く発生しており、これが血液型占いに関する議論を激しくさせているのである。

そもそも血液型とはなんであるか

一言に血液型というが、血液型占いで用いられるのはABO式血液型のみである。
専門家以外にはあまり知られていないが、血液型の分類の方法は何種類も存在する。ABO式以外にそれなりの知名度があるのはRh式ぐらいのものであるが、ほかにもHLA型、Duffy式、MN式、P式、Kidd式、Diego式、Lewis式など、実に300種類以上の分類が発見されているのだ。
そのなかでABO式分類の認知度が群を抜いているのは、医療行為上の重要性にもとづくものでしかない。
よって、血液型で分類しての占いが可能だというのであれば、ABO式での分類のみならず、ほかの分類法でも占いができなければならない。
ABO式は分類法の一側面に過ぎないのだ。
知育玩具に、さまざまな積み木が詰められているセットがよくあるが、あれらは色で分類することも形状で分類することも可能となっている。分類の基準によって物事のカテゴライズの仕方は変化してくる。
同じように、ABO式では同じ括りに入る人々が、ほかの分類では別々になることもあるはずだ。それでも、彼らは同じ性格であり同じ運勢であるといえるだろうか。
血液型占いの信憑性は、この根本の部分から揺らいでくる。
そもそも血液型とは、血液の種類を表すものではない。赤血球の表面に存在する抗原の種類を表しているだけなのである。
そのような微少な要素が性格を決定づけるとするならば、骨密度や毛深さといった要素が性格に寄与していてもなんら不思議はないはずだ。だが、骨密度占いというものはきいたことがないし、あったとしても信じる者はほとんどいないだろう。
このように、血液型が性格に関連しているという説には、あらゆる点からみて信憑性がないといえる。

血液型占いの定着とマスメディアの罪

にもかかわらず、日本においてこれほどまでに血液型占いがポピュラーになり、ポピュラーであり続けているのはなぜだろうか。
まず、占う際の類型の少なさが挙げられる。ABO式血液型を用いているため、A型、B型、AB型、O型という四種類しか存在しないのである。同じくポピュラーである十二星座占いとくらべてもわずか三分の一だ。
すなわちこれは、コンテンツとしての占いの作りやすさに繋がる。簡単なのでいたるところで穴埋め的に血液型占いが採用され、その頻度の高さゆえ、おのずと人々に浸透していく。結果もシンプルに出さざるをえないため、運だめしのつもりで好んで受け止める人々もやはり多くなるだろう。
それをマスメディアが繰り返し伝えることで、現在のように定着していったのである。血液型占いの隆盛には、マスメディアの果たした役割はあまりに大きいといえるだろう。
また、前述のような疑似科学的要素と結びつけて語られるケースも多かったために、一部の人々がかたくなに血液型占いを信じ込むようになった。血液型だけで他人を判断し、それだけを材料に「あの人とは付き合えない」といった言葉を口にする者もめずらしくない。
非常に馬鹿げた話であるが、信仰に対して論理は無力である。いくら科学的根拠が乏しいと諭したところで、信奉者たちが意見を翻すことはない。オカルトの常として、百の反証より一の実体験が強くなってしまうのだ。つまり、一度でも的確な結果が得られてしまうと、彼らにとっては血液型占いはたしかに真実なのである。
こうなると、あとはスパイラルが待つばかりだ。
メディアは、いつの世も大きな注目を集められるものを好む。コストがあまりかからず安定した注目度も期待できる血液型占いが、コンテンツとして優れているのはいうまでもなかった。ますます血液型占いを扱うようになり、それによってますます信奉者も増えていき、現在にいたるのである。
この傾向は、不況下で制作費が削減されつつある昨今ますます強まっているといえよう。
血液型占いのあやうさは繰り返し指摘されており、BPO(放送倫理・番組向上機構)からも報道を控えるよう勧告が出されているが、実際にはほとんど自粛されているようには見受けられない。

誰もが血液型を知っている国・日本

日本における血液型占いの浸透度合は、日本人のほとんどが自身の血液型を知っていることから窺える。プロフィールを記入する際、生年月日や性別などと並んで血液型の欄があることもめずらしくない。
他方、諸外国では、自分の血液型などまず知らない。知る必要性がないからである。医療行為の際に必要になるとはいっても、そのときは医療従事者がしっかりと調べてくれるから問題はない。むしろ、間違った血液型を覚えてしまっているほうが医療ミスに繋がりやすく危険だとすらいえる。
ここまで定着した背景には、ABO式による分類のバランスのよさもしばしば挙げられるだろう。
四種類の血液型それぞれの割合が、日本人はほかの民族にくらべて差が小さいのである(A型:40%、O型:30%、B型:20%、AB型:10%)。この割合が絶妙だからこそ、他者の血液型を尋ねたり当てようとしてみたりすることがエンターテインメントとして成立したのだといえる。
反対にいえば、この割合の差が大きいからこそ諸外国では根付かなかった。民族によっては、9割以上がO型というケースが実際に確認されている。これでは、血液型を当てることが流行することは考えられないだろう。
それどころか、血液型にもとづく性格分類は差別に繋がるおそれもある。

血液型をめぐる社会問題

バランスのよい日本においてさえ、人事の際に血液型が考慮されているという話はしばしば聞かれる。これはあきらかに不当な偏見による差別である。極論をいえば、バランスの悪い民族にあっては、マイノリティが抹殺される可能性もあるだろう。
このことにはマスメディアの責任が非常に大きいといえる。
2011年、松本龍復興担当大臣が公的な記者会見の場において、自身の血液型を弁明に用いた例も記憶に新しいだろう(「私はちょっとB型で短絡的なところがあって」)。
公職にある人間がこのような発言をするというのは、まったく感心されない事態である。この弁明がまかりとおるのであれば、同じ血液型の人間が同じ過ちを犯すということになってしまう。要職からB型の人間を除外するという決断がおこなわれたとしても、松本は反論できない。
血液型占いの影響力はすでに、エンターテインメントの領域を越えているのである。

それでも血液型占いは「よく当たる」

一方で、血液型占いを「よく当たる」と思っている人々は多い。
これには二通りの理由が考えられる。
ひとつは、多くの占いと同様、誰にでも当てはまりそうな内容を提示しているということである。一か所でも当てはまっている部分があると、人はすべてが当たっているかのような錯覚に陥ってしまうことがしばしばある。いわゆるバーナム効果だ。これは詭弁や悪徳商法の常套手段である。
もうひとつは、後天的な刷り込みである。血液型性格分類が浸透しすぎた結果、「自分はA型だから几帳面」だとか「自分はB型だから短絡的」だとかいったように、周囲から与えられた情報をさも真実かのように思い込んで成長してしまうケースが多くなってきているのだ。
これは一種の自己暗示である。自分の性格をこうだと思い込んだ結果、規定された性格に自然に寄り添っていってしまうとする説は、現在それなりの信憑性を得ている。
いつの日か、血液型占いを「当たる」と思う人ばかりの世の中になってしまう可能性を否定できないのもまた、事実なのである。しかしそうした世の中は、多くの社会問題を抱えることになるだろう。
あなたが信じていようと信じていまいと、偏見や差別は待ってくれない。
そうなるまえに、一人でも多くの人々が血液型占いの実態について熟知しておくことが求められるのである。

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