「心とは」の定義を巡っては主に、「心脳一元論」を基本とする科学的見解と、「心脳二元論」を基本とする宗教や神秘学的な見解がある。
まずは科学、特に脳科学における心の定義を紹介しておこう。
現代の脳科学において心とは、「脳が見せる内的現象」と考えるのが一般的である。
このように心が脳の働きであるとする考えを「心脳論」と呼び、「心=脳」とする考え方は「心脳一元論」と呼ばれる。
「心脳一元論」の中でも、最も多くの支持を集めている考え方が「創発的一元論」と呼ばれるものである。
脳の各部には、五感や喜怒哀楽などの感情をそれぞれ司る部位があることが知られているが、この脳全体は、単なる部分の総和ではなく、全体であるがゆえにひとつ「心」というシステムを形成していると考えるのが「創発的一元論」である。
こうした「心脳一元論」によれば、脳死=心の死、ということになる。
一方で、脳と心を別のものとする考え方は「心脳二元論」と呼ばれる。
「心脳二元論」における心とは、人間のあらゆる行動(本能的活動を含む)や思考活動全般に影響を及ぼす、臓器ではない「見えざる中心母体」である。
また「心=魂」とする説もあるが、これも「心脳二元論」である。。
この場合、魂は輪廻転生を繰り返すものであるから、死後も心は死なないとする。
人智学の創始者、ルドルフ・シュタイナー(1861年-1925年)は、人間は肉体以外にも、エーテル体、アストラル体、自我、というエネルギー体があり、多層構造を持つと説いている。
そして心とは、肉体以外のエネルギー体の部分の総和によって発現されると考える。
哲学においても心は重要な命題であり、「心の哲学」という分野が生まれている。
かつての哲人たちは、「心はどこにあるのか」という問いに対し、ヒポクラテスは「心は脳にある」とし、プラトンは「脳と脊髄に心が宿っている」と考え、アリストテレスは「心臓にある」とした。
「心脳一元論」、「心脳二元論」、さらに心を心臓など脳以外の臓器と関連付けるなど、見解は様々だが、心とは、人間を単なる「機械的な有機生命体に留めてはおかない何か」であることは間違いないだろう。
もし人間に心が無ければ、すべての人はもっと一様な行動と思考活動を機械的に行うはずである。
この場合、この世には一切の対立や争いも無い一方で、感動や幸せも無いのかもしれない。
しかし現実には人間に心が在ることで、世の中には多くの争いや対立があり、一方では、感動や幸せを経験しているのである。
また心の定義は人によって、「本能を発動する指令塔」、「個性の基」、「人間を人間たらしめるもの」、「行動・思考の選択基準を決定する領域」、「知識・感情・意思の総体」、「善悪、好みなどあらゆる判断の中枢拠点」、「価値観や道徳観を生み出す場所」、「関心や思いやりなどの精神活動の発信源」、「人生を歩むための羅針盤」、「人間において唯一、物理的制約から解放された自由度の高い領域」などと様々である。
心の解釈が千差万別なことからもうひとつ確かなことは、「人の数だけ心の在り方はそれぞれ違い、決して一様ではない」ということであろう。
前述のように、ルドルフ・シュタイナーは、人間には肉体の他に、生命の座であるエーテル体、感情と印象の座であるアストラル体、意識の座である自我、という3つのエネルギー体があるとした。
こうした考え方が反映されたシュタイナー教育においては、7歳ごとの年齢と共に「心の育成過程が異なる」と考えている。
まず最初の段階(第一七年期)は「0歳から7歳」までで「意志の育成期・エーテル体の自律期」である。
意志は心の重要な部分で、7歳までに「意志」を育てることが重要だとされている。
エーテル体の自律期とは、エーテル体がしっかりと安定することを意味している。
次の第二七年期は「7歳から14歳」までで「感情の育成期・アストラル体の自律期」である。
思春期とも重なるこの時期は、感情の成長が重要な課題となる。
そのためシュタイナー教育では、特に芸術活動の実践を奨励している。
美的感覚を磨くことで、感情をより豊かなものにするわけである。
また、シュタイナーは、「アストラル体」は感情を司るものと考えている。
第三七年期は、「14歳から21歳」までで、「自我の育成期・自我の自律期」である。
シュタイナーにおける「自我」とは、それまでに身に付けた「意志」、「感情」に「思考」がバランスよく加わったもので、これによって「思考力、知力、判断力」が深まり「自我」が完成すると考えられている。
そして「自我の完成」はすなわち「心の完成」ということになる。