真霊論-木村藤子

木村藤子

木村藤子は日本の女性霊能者である。青森県下北郡田名部(現・むつ市)の出身で、現在も恐山の麓に住んでいる。地元では「木村のカミサマ」、「へびのカミサマ」、メディアなどからは「陸奥のカミサマ」と畏敬の念を込めて呼ばれており、自宅には毎日30人以上の相談者が訪れるという。
具体的な能力としては、神や仏と対話をする力や、神仏の世界を覗き見る力、そして除霊の力があるとされる。いわゆる透視霊能者に分類される。
木村の著書『「気づき」の幸せ』(小学館)によれば、母親も地元では有名な祈祷師であったようで、この点から、木村が能力を授かったことには遺伝的な要素もあると考えられよう。
歌手・タレントであり霊的現象への造詣も深い美輪明宏は、「霊能者の99パーセントは偽物」であるとしたうえで、木村を「数少ない本物の霊能者」だと評価している。

霊能者としてのめざめ~カミサマになるまで

木村は1947年、8人兄弟の末っ子として生まれた。予定日より2か月もの早産だった。
母親は娘が無事に成長できるか心配だったが、神に尋ねたところ「何も案ずることはない」と言われたため安心して育児ができたという。
霊能者には、幼少期からすでに能力を発揮している者も少ないが、木村が自身の能力をはじめて自覚したのはかなり遅く、22歳のときであった。信用金庫の職員として働いていた木村だったが、仕事から帰る途中、突然目の前に大きな光が広がって神が現れたというのである。この日以来、頻繁に神の姿を見ることができるようになり、またそれを通じて、人の心や気持ち、霊的現象なども見えるようになった。
だが、このころ木村は、この能力をありがたがるどころか、疎ましく思っていた。他人の悪い面や隠している面が、見たくもないのに見えてしまう。それは大変なストレスとなっていたのである。能力を生かそうなどとは考えもせず、引き続き信用金庫に勤め続けた。その後23歳で結婚し、ごくごく平凡な生活を過ごそうとする。ある日突然芽生えた能力なのだから、ある日突然消えてなくなるかもしれないと期待したのである。
しかし、いつまで経っても霊能力と縁を切ることはできなかった。
とうとう耐えきれなくなった木村は、34歳のとき、ついに死のうと決意する。このとき妊娠中であったにもかかわらずである。いかに心労が積もり積もっていたかが窺える。
しかし、死に場所へ赴くべく車を運転していると、途端に猛吹雪に襲われた。視界は真っ暗になり、行き先もまったく見えず、木村は来た道を引き返さざるをえなくなった。ところが、やがて家へ戻って車を降りると、それまで降っていたはずの雪は跡形もなく消えていたのである。それどころか、空には星が光っているほどだった。
こうして死ぬことも許されないのだと悟った木村は、これが神の意志なのだと受け入れることにしたのだという。そして、せっかく授かった能力なのだからと、それを仕事にすることが世のため人のためにになるはずだと信じるようになった。
霊能者・木村藤子の誕生である。
母親が祈祷師だったこともあり、木村が霊能者としての活動をはじめても周囲は特別驚くこともなく、すんなりと受け入れられた。さまざまなことを次々に言い当てていき、実績が積み重なっていくと、いつしか木村は「カミサマ」と呼ばれるようになっていた。

メディア露出の少なさと知名度

霊能者としての評価の高さのわりに、木村の知名度は必ずしも高いとはいえない。
もちろん、霊やスピリチュアルに興味・関心のある人々のあいだでは、非常に有名であることに違いはないのだが、一般大衆への浸透度という点ではもうひとつである。いわゆる「知る人ぞ知る」霊能者だといえよう。これは、木村がマスメディアへの積極的な露出を好まないためである。
昨今のタレント然とした霊能者と違い、木村は昔ながらの土着的な、コミュニティに根差した霊能者であるといえる。
木村の名がはじめて大きく世に出たのは、1990年9月のことだった。
むつ市内にあるマエダ百貨店というデパートから、爬虫類ショーに出展していたアミメニシキヘビが逃げ出すという事件が起きたのである。このニシキヘビは体長が5メートル、胴回りが30センチメートルもあるという巨大ニシキヘビであり、全国的にニュースで大きく報道された。周辺地域はパニックに陥り、100人規模の捜索隊も出動したが、まったく手がかりはなく、見つかる様子はなかった。
そんなおり、「カミサマに見てもらったらどうか」という近隣住民からの連絡があり、対策本部は藁にも縋る思いで木村に頼ることとなったのだった。
すると木村は、「遠くには行っていない」、「デパートの敷地内に隠れている」、「川を渡れず引き返してきている」などなどとニシキヘビの所在地を霊視し、さらに「今夜10時に見つかる」と時刻までもを見事に言い当てた。結果、無事にニシキヘビは保護され、ニュースでも大々的に報じられた。木村のもとにマスメディアの取材が殺到するのはすぐだった。
しかし木村は、のちの霊能力ブームやスピリチュアルブームの際に現れた多くの霊能者たちとは異なり、最低限の対応しかしなかった。名を売り金儲けをすることが目的ならば、これはまさしく絶好のチャンスだったはずだが、木村はこのときも数えるほどしかテレビ出演をしていない。
ごくまれにテレビに出るのは、美輪明宏との縁からである。2000年代のスピリチュアルブームを牽引した番組「オーラの泉」にも2005年6月に出演し、美輪や江原啓之らとトークを繰り広げた。数こそ少ないが、こうした露出の機会のたび、木村は小さくないインパクトを視聴者に残しているといえよう。2007年の著書『「気づき」の幸せ』は10万部以上のベストセラーとなった。徐々にではあるが着実にその名は広まりつつある。

「人を助けることが自分の人生」

木村に相談にのってもらおうと青森まで足を運ぶ人々も後を絶たない。
木村の相談は完全予約制だが、ずっと先まで予約が埋まってしまっているのが現状である。むつ市内のホテルや宿泊施設も、木村にみてもらおうという人たちで一杯になっている。また、事前に予約しておくことで、地元のタクシー会社が空港や駅から直接木村の自宅まで送迎してくれるサービスもある。
木村にとっては、毎日の相談こそが重要なライフワークなのである。かつて、乳ガンをおしてまで相談にのり続けたこともあった。結局そのときは、神から「手遅れになる」と注意されるまで相談者を優先した(すでに末期癌になっていたが、奇蹟的に助かった)。
神に助けられた命なのだから、人を助けることこそが自分の人生なのだと木村は自著で語っている。
美輪からもっとテレビに出るよう進言されているにもかかわらず、露出を増やそうとしないのは、こうした信念があってのことだろうと考えられる。事実、「オーラの泉」出演後は相談依頼が殺到してしまい、近年は多忙を極めている。テレビに出る暇もないというのが実際のところなのだろう。

《か~こ》の心霊知識