「霊術」は、明治末期から昭和初頭にかけて、日本中で大流行した一群の民間療法、占術、霊的施術を総称する言葉である。
霊術のルーツには、瞑想法、呼吸法の他、「陰陽道」の陰陽師たちが発揮した霊的能力や、「修験道」「道教」らの道師たちが発揮した能力等も含まれるため、時代を問わず日本古来の「霊能力を活用した技術」を幅広く「霊術」と呼ぶ場合もある。
そして霊術諸流派の創始者、使い手が「霊術師(家)」である。
霊術の具体的な内容については、霊術師・流派によって大きく異なっている。
例えば「西村式霊術」の創始者霊術家・西村大観の場合、その内容は、催眠術、山下式紅療法、玄米療法、岡田静座法、霊子術などあらゆる霊術、祈祷法を研鑽し組み合わせたものとなっている。
このように霊術師・流派によって、霊術の内容は異なるが、多くの霊術師たちに共通して活用した、霊術の中心的な手法が、「臼井靈氣療法」(現代のレイキ)に代表されるような「手かざし療法」であった。
また、明治時代には、霊術とならび催眠術も流行の兆しを見せていた。
しかし明治政府による文明開化政策、西洋科学迎合政策に対して、霊術・催眠術は共に相反するため、弾圧の対象となった。
特に霊術の場合は、人間の霊的部分の対処法であるだけでなく、「心身の病気治し」もその目的であったため、医学界からの反発も強く買ったようである。
大正・昭和以降、結果的に「霊術」のエッセンスや流派は、教派神道やそこから派生した新宗教団体、もしくは「整体術」などの中に吸収されていくことになる。
またレイキのように、海外にそのノウハウが流出し、1990年代のニューエイジブームなどの到来をきっかけに、日本に逆輸入されたケースもある。
●田中守平と「太霊道」
田中守平(1884年-1928年)は霊術ブームの先駆けであり、多くの霊術師にも大きな与えた人物である。
19歳の時、右翼活動を行った田中は弾圧により、4ヶ月に渡って自宅にて謹慎する。
この4ヶ月が大きな転機となった。
この間に、田中はオカルティストとしての才能に目覚めるのである。
「呼吸と食事」こそが生命の根本要因であり、肉体と精神の結合体である人間の生命の本質をつかむには、この2つを統制するしかないと確信し、90日に及ぶ断食を修行を行う。その結果「霊子術」という霊術体系を考案する。
布教活動を開始すると、リューマチ患者、歯痛に苦しむ患者らを、次々と話しかけ、手で触れただけで癒してしまう。
これがきっかけとなり、田中の霊能は大評判となり、多くの病人が押しかけて来る。
しかしその後、再び右翼活動により、1年の禁固刑となる。
出所後、故郷で再び山に篭もり最後の修行を行った後、宇宙の太霊を感得したとし、「太霊道真典」なる著書の発表と共に、霊術体系「太霊道」を完成させる。
その後は政治活動は止め、霊術活動に専念する。
太霊道の主義は「太霊を信奉し、全・真・融会・創化・進展をすること」であり、その目的は「宗教、科学、哲学、道徳を包容し超越する」こと、「宇宙の真理を研究し、人生の本義を知る」こと、「生命の根源を究明し、これを現す」ことであるという。
究極目標としては、「全世界の人類の思想を導き統一し、精神の安立と肉体の健康を得ること」とした。
「太霊」とは、宇宙に偏在する超越的実体の本源であり、この実体を活動的方面より見る時、これを「霊子」と呼んだ。
また、物質も精神もこの「霊子」なる一元的なものから生み出され発現している、と説いた。
この霊子を発現させる術こそが、「霊子術」であるという。
霊子術を実践すると、「霊子作用」が引き起こされるが、これは肉体の作用でも精神の作用でもなく、肉体や精神の原因実体である霊子の作用であり、この作用には2つの発動の状態があり、一つは顕動作用、もう一つは潜動作用である。
太霊道の霊術とは、この2つの作用の発言をコントロールする技術のことであるという
こうした作用は、「病気治療、教育や性格の改善、果ては軍事利用も可能」だという。
具体的な訓練方法として、呼吸法、食事法、気合法、気を練る練丹法の応用、催眠術、針を刺す法なども用いられた。また、西洋の心霊主義も取り入れ、テーブル・ターニングやウイジャ板なども用いていた。
太霊道は多くの支持者を集め、巨大化する。軍人や官僚、知識人も続々と参加した。
しかし昭和3(1928)年、田中の死と共に「太霊道」の歴史も幕を閉じることになる。
●野口晴哉と「野口整体」
野口晴哉(1911年-1976年)は「野口整体」の創始者にして、整体という言葉を後世に広めた生みの親である。
なぜ霊術師として野口の名前が出るのかといえば、野口が始めた整体の原点は、霊術にあるからである。
そもそも野口が治療家を目指した原体験は、12歳の時、関東大震災の被災者に「手かざし治療」を施し効果を得たことにあった。
そしてその後、霊術師・松本道別、桑田欣児らの元で修行を重ね、それらの成果が「野口整体」に活かされることになる。
中でも現在でも実践者の多い健康法である「活元運動」は、ある準備運動を行った後に、「身体の自発性に身を任せた自由運動」であり、霊術の「霊子作用」、「霊動」を活用した野口流霊術と呼ぶべき健康法である。
また野口は身体に手を当てる施術を「愉気法(ゆきほう)」と呼んだ。
手かざし療法は、身体から手を少し離した状態で行われるが、愉気法では、患部等に直接手を当てる「手当て療法」である。
この手当て療法はその後、整体術の一番基本的な施術法となっている。
じつは「野口整体」という呼称は、野口が自らそう呼んだものではない。
これは野口の整体術が、他の整体流派とは一線を画しているため、周囲によって「野口整体」と呼称しているのである。
その一線を画しているという部分とは、体を整える「整体」の真の目的を、体を通してその奥にある、心・潜在意識・精神・魂などを整える、ことに着目した点であろう。
●西村大観と「心源術」
西村大観は大正・昭和前期に活躍した霊術師である。
24歳のときに催眠術、山下式紅療法、玄米療法、岡田静座法、霊子術などあらゆる霊術、祈祷法を研鑽する。
その後母親の胃ガンを治癒させて以来、独自の霊術「心源術」の体系を確立した。
「心源術」は、「人格転換による治療」などと呼ばれる。
その他に占術、未来予知の技法、霊脈判定術などを発展させた。
「霊脈判定術」とは、霊気によって五本の指に息を吹きかけ、施術者の霊性と被術者の霊性が合った瞬間に、指先に顕現する霊動から「霊脈」を判定するというもの。
これにより、その人の運気、吉凶、禍福がわかるというものだった。
大観門下からは多くの霊術家、宗教家が育ったが、後の大本教の幹部で「九鬼文献」を紹介した三浦一郎も高弟だった。