龍神とは、神獣・霊獣であり、日本では主に天候・水に関する事象等を司る神として信仰の対象とされている。
龍神の起源は、日本においては中国で完成された龍神信仰の影響によるものであるが、中国の龍神信仰は、インドのヒンドゥ教・仏教などに登場する、蛇神「ナーガ」(もしくはナーガ族)をモチーフにしたものと考えられる。
中国の龍神信仰において、龍神は以下のような存在とされている。
龍神は、水中か地中に棲むとされることが多く、その啼き声によって雷雲や嵐を呼び、また竜巻となって天空に昇り自在に飛翔する、等とされる。
誰もがすぐに頭に思い描く龍の図は、中国にて完成されたものであるが、その身体はいくつかの動物の要素を集めて構成されている。
例えば、中国の伝承では「角は鹿、頭はらくだ、眼は鬼、耳は牛、うなじは蛇、腹は蜃、鱗は魚、爪は鷹、掌は虎」等とされている。
このことから、人間ばかりを生命の頂点として厚遇しがちな人類に対し、龍の存在とは、他の生命への敬意を払うことの象徴、と考えることもできる。
また同様に、中国起源の干支に唯一、伝説上の霊獣である辰(龍)が収められた理由も、こうした生命の共存を示唆するものである可能性もある(辰が収められた理由は分かっていない)。
龍のモデルに関しては、蛇以外にも、特に口の構造がワニに近いため、古代中国に存在した大型ワニにヒントを得ている、と指摘する研究者もいる。
ちなみに体長7,8メートルと推定される、古代の巨大ワニの化石が日本からも出土し、「マチカネワニ」と命名されている。
龍神は、あくまでも神話上・伝説上の神獣・霊獣とされているが、日本や中国では古来より、実際の目撃例もあり、動画・写真等の記録も多数ある。
蛇という存在は、脱皮を繰り返す・交尾の際に絡み合う・猛毒で他の生命を殺傷する、などの特性などから、「生死・性のシンボル」「異次元の番人」「神の使い」などとして、インド、中国、日本、南米のシャーマニズムなどにおいて「神聖化」されてきた。
一方で、こうした特性のため、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教においては悪魔の化身とされている。
こうした蛇に対するとらえ方の違いはそのまま、龍を天使とするか、悪魔とするか、という価値観の違いにつながっている。
中国、日本において、龍は天使であるが、その起源となっているのは、インド神話に登場する蛇神「ナーガ」である。
ナーガの典型的な外見は、頭頂部に五体の蛇を飾り、顔は人間のようであるが、その躯体はインドコブラなのである。
このナーガは、族として集団を形成しており、男性はナーガ、女性はナーギーと呼ばれる。
集団はいくつか存在し、各集団の王は「ナーガラージャ」と呼ばれる。
ナーガ族は、「天気を制御する力を持つ」とされ、人間がナーガを怒らせてしまうと、その土地は旱魃に見舞われ、怒りを鎮めれば雨を降らす、とされている。
ナーガ神話は仏教やヒンドゥ教の誕生より古くから存在し、インドの各宗教は、このナーガ神話を巧みに取り込んでいくことになる。
特に仏教は、仏陀の悟りを守護する存在として「ナーガラージャ」を位置づけたのである。
仏陀が悟りを開く際の様子を表わした絵には、仏陀の背後から五体の蛇が傘となって仏陀の頭上を守っている姿が描かれる。
この蛇がナーガラージャである。
時に人間に対して暴挙を行うナーガたちは、仏陀の教えと迎合することで、仏法の番人にもなったのである。
仏法の番人となったことで、ナーガは地上と天空を行き交う飛翔能力をも授かることになる。
こうしてナーガは、より神格化され、また、その姿も現在の龍へと変貌することになる。仏教において龍は、仏法を守る「八部衆」のひとつであり、「龍神」と呼ぶ。
インドや中国の僧や皇帝には、龍(竜)を名前にする者が多いが、これは龍神信仰のひとつの現われである。
中でも中国、日本の仏教界に大きな影響を与えたインドの高僧が、「龍樹(りゅうじゅ)」で、サンスクリット語名は「ナーガールジュナ」である。
龍樹は、八宗(天台宗・真言宗・浄土宗・浄土真宗本願寺派・真宗大谷派・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗)の祖師とも称され、また真言宗では、真言八祖の1人であり、浄土真宗の七高僧の第一祖とされ「龍樹菩薩」、「龍樹大士」と尊称される。
龍樹は単に経を唱えるだけの僧ではなく、さまざまな神通力を用いたとされ、呪術宗教においても大きな影響を与えている。
これらのことにより、仏教における龍とは、仏法の番人であり、神通力の使い手である聖なる存在ということになる。
日本に伝来したナーガ伝承の影響を、最も感じさせるエピソードが「ヤマタノオロチ」のような多頭大蛇の存在である。
インド発祥の蛇伝説は仏教と中国において龍神となり、日本にも伝来してきているのである。
日本における龍神信仰は、龍を気象を司る神としており、大地の豊饒祈願、旱魃時の雨乞いの対象、等とされてきた。
雨乞いのエピソードとして有名なものとして、神泉苑(二条城南)で弘法大師が祈りを捧げて善女竜王(清瀧権現)を呼び、雨を降らせたという逸話がある。
日本で龍神信仰が盛んになるのは平安時代以降で、これは仏教の降盛とともに、仏教の龍神信仰の影響を受けたものである。
中でも「法華経」において龍に関する話は多く、法華教行者が龍鎮めや雨乞いの祈祷などをかなり宣伝し、龍の角や牙などを売り歩いていた人も多かったとされる。
「小夜姫のエピソード」においては、小夜姫が雨乞いの生贄として龍神に捧げられるが、法華教の力で龍を退治される。
実はこの龍とは、悪事をはたらいた親のために人柱にされた恨みから、龍に変じた人間であり、法華教のおかげで成仏できたのだ、という説話になるのである。
しかし江戸時代においては、龍を聖獣視することはなかったようである。
その証拠として、中国の『三才図会』を範とした図入り百科辞典『和漢三才図会』によれば、龍の分類はトカゲ、イモリ、ヤモリなどの実在の動物と同じである。
ちなみにその性質はこう描写されている。
「手足のないものが蛇であるのに対して、四本足をもつものが龍である。九種の動物からなるという九似説や春分には天に昇り、秋分には降って淵に入る」。
現代の日本において、特にスピリチュアルな事象に関心の深い人たちの間では、龍は神聖な存在とされている。
また実際の目撃例なども報告されている。
その多くは雲の形が「龍のようだ」といった類のものであるが、中には空中を漂う龍、もしくは龍の体の一部と考えられる写真もある。
日本では、宮崎県の高千穂周辺が、龍の出没スポットとして知られている。
複数の人間が「空を舞うビニールのような白い物体」を目撃したり、「空中を漂う細長い体を持つもの」が撮影されている。
遭遇体験を語る者もいる。
最近有名になったエピソードとしては、『奇跡のりんご』で知られる木村秋則さんが、若い頃に龍と遭遇したという体験談の持ち主である、ということであろう。
しかし龍の実在性に関しては、まだまだ目撃例、証拠等の検証材料が少なく、考察の対象とはなりえていない。
また、こうした神聖なる存在は、龍に限らず、公証性よりも、自身の精神との繋がりにおいてその存在価値が重要な意味を持つものなのであろう。