霊感とは、人間の心身に神仏や霊魂が乗り移ったかのように感じる超自然的な感覚のことを指す。転じて、芸術や創作表現等の分野においては、突発的なひらめきやアイディア、インスピレーションのことを霊感と呼び、「降りてきた」などと表現することもある。
また、1980年代の心霊ブーム以降は、霊的なものを感じ取る能力、すなわち霊能力とほとんど同様の意味で使用されることも多くなっている。
本来、霊感とは誰にでも備わっているものであった。いわゆる「虫の知らせ」を経験したことのある人は少なくないだろう。また、「予知夢」もこれに近い現象だ。このように、霊感は本能的な危機回避能力のひとつとして人間に作用してきたのである。
しかしながら、この能力は一般に、成長過程でだんだんと薄れていくとされる。理性や知識を身につけることで、人間には、危機に際して適切に対処する能力が身についていく。そのため、超常的な力にどうしても頼らざるをえなければならない状況に遭遇することが、めったになくなるのだ。加えて、科学の発達による影響の大きさも無視できないだろう。科学はさまざまな便利な機械を生み出してきた。霊的な力に依存するまでもなく、科学で解決できる問題の領域が広がったのである。
それでもまれに、大人になっても霊感の衰えない者がいる。こうした者たちのことをわれわれは「霊感が強い」と称している。霊感が強い者は、ふつうの人には見えないはずの霊を目にしたり、見えなくともその存在を感じ取ることができる。他人の気やエネルギーを受け取ることも霊感のひとつだ。
なかでも格別に強い霊感を持つ者が、霊能力者という職業を選ぶ。彼らは霊魂と直接コミュニケーションを図ったり、悪い霊を人間から取り除いたりもできる。ここまで霊感が強いと、これはもはや特殊能力である。
このことから、現在では反対に、霊能力者のような能力のことを霊感と呼ぶという逆転現象さえ起きている。
ただし、霊感の強さは必ずしも歓迎されるべきものではない。霊能力者のように日々の仕事へ生かすのであればよいが、そうでもないかぎり、極端に強い霊感はむしろ日常生活に害をもたらすことのほうが多い。見たくもないものが見えてしまったり、聞きたくないものが聞こえてしまったりすることは、想像を絶する苦痛である。
たとえば、満員電車に乗ったときや繁華街で人混みにまぎれたときなどは、あまりにも多くの悪いエネルギーを吸ってしまって気分が悪くなるというケースがある。霊感に振り回されてしまうのだ。しかしながら、霊感は現在まで科学的に証明された能力ではないため、その異常を医者に訴えるわけにもいかない。訴えたところで、統合失調症と診断されるだけである。
そうして霊感の強い者たちは、自分だけで苦痛を抱え込んでしまうのである。結果、体調や精神のバランスを崩すこともある。
現在霊能力者として活動している者でさえ、それを職業にする以前はそうした現象をわずらわしく思っていたことが少なくない。ある霊能者は、思い悩んで自殺を試みたことさえあった。それだけ、霊感を抱えるということは大きなエネルギーを必要とするのである。
近年のような意味で軽々しく「霊感」という言葉を使うことは、こうした悩みを無視しているといえ、霊感というものへの正しい理解には繋がらない。
マスメディアにおいては、「霊感」という用語はきわめて扇情的に用いられている。あたかも魔法かのように、霊能力と直結した意味で使用されることが多い。心霊スポットを訪問したタレントが、霊感のあるなしを話し合うというシーンはよく目にすることがあるだろう。
1980年代後半からの心霊ブームにはじまり、2000年代半ばからのスピリチュアルブームにいたるまで、この言葉の使われかたは変わっていない。
これを受けて、ふつうの人でも「私は霊感がある」とか「ない」とか言うことはめずらしくなくなっている。
しかし、先述のように、必ずしも霊感とは、死後の世界を覗き見る能力のことや、前世を占う能力のことをいうのではない。マスメディアの影響の大きさゆえに、このような用法が定着してしまっただけのことである。
こうした本来からはかけ離れた用法が蔓延することは、悪徳霊能力者の金儲けの温床とさえなっている可能性があり、充分な注意が必要だろう。霊感という用語が浸透しているのをいいことに、それを徹底的に悪用している。悪徳霊能力者たちは、いつの世も、「自分だけが見える」という優位性を盾にして相談者を詐欺にかけるのである。
マスメディアのいう「霊感」の安易さには、常に気を配っておかなければならない。
もともと、「霊感」とは聖書に登場するキリスト教の用語であった。ここでは「Inspiration」の訳として用いられている。Inspirationとは、聖霊による人間への干渉行為のことだ。神からのが啓示によって示された真理を人間が書き留める際に、聖霊が霊感をはたらかせたのである。
よって、本来の意味での霊感は聖書の成立に直接寄与している重大な概念であり、キリスト教と不可分の用語だといえる。
だが、今日、わが国においてこの意味で「霊感」という言葉が用いられることはめったにない。