真霊論-臨済宗

臨済宗

「りんざいしゅう」と読む。禅の宗派のひとつで、中国禅宗五家のひとつでもある。唐の時代に成立。名前の通り臨済義玄が宗祖。
豪放な家風(各々特定の家において受け継がれる固有の慣習、流儀などの行動様式)が特徴で中国禅の頂点とされる。
日本の臨済宗は鎌倉時代に伝わり、江戸時代に再建したものである。看話禅(かんなぜん)と言って、唐代とは大きな違いがある。曹洞宗の「黙照禅」と比較されることもある。

【禅】
大乗仏教の一派。達磨(だるま。南インド出身の伝説的な僧侶で、釈迦から数えて28代目の仏教の祖)が中国で教えを伝えて成立したとされる。明の時代に衰退したが、後、明治維新以降の日本の禅が、世界に伝えられた。
不立文字、教外別伝(悟りを心から心に伝える)が原則なので中心教典を持たず師資相承(師から弟子へと伝える)の以心伝心が特徴であり、座禅を中心に行う。また、正真正銘の自分を見つめ、自分を追求することである。

【中国禅宗五家】
臨済、、?仰(いぎょう)、曹洞(そうとう)、雲門(うんもん)、法眼(ほうげん)。
禅宗における5つの宗派のこと。
それぞれの家風(宗風)をひと言で言うなら、
臨済宗……痛快(たまらなく愉快、気持ちよく胸がすく)
?仰宗……謹厳(きわめて慎み深く、真面目で正直である)
雲門宗……高古(気高く古風)
曹洞宗……細密(細かなところまで行き届いている)
法眼宗……詳明(細かいところまで明らかにする)

【看話禅】 「かんなぜん」または「かんわぜん」と読む。座禅流儀の1つ。公案(悟りを開くための修行者への課題。禅問答として知られる無理会話のこと)を重視し、研究・理解することで大悟に至ろうとする禅。禅問答または無理会話(むりえわ)とは、理を超えた言葉、理屈では解けないものとされる。

【曹洞宗の「黙照禅」】
「もくしょうぜん」と読む。座禅流儀の1つ。看話禅と対立する言葉である。
一切の考えや判断を断ってただ黙々と坐することによって人の中にある仏としての心性があらわれ、仏徳がそなわるとする。それこそが座禅の羊蹄とする。
臨済宗の僧が曹洞宗の始祖のスタイル(『黙照銘』に示してある)を「黙照邪師」と揶揄したことから始まる言葉。

中国の臨済宗

会昌の廃仏(会昌という年号の時代に起きた対仏教弾圧事件)後、臨済宗は唐末の臨済義玄を宗祖に始まった。「喝」(怒鳴ること)を多用したので、その峻烈な家風から「臨済将軍」と呼ばれた。
黄檗希運(おうばく きうん)の弟子である臨済は、河北の臨済寺を拠点とし、新興の藩鎮勢力である成徳府節度使・王常侍の支持を基盤に宗派の勢力を伸ばして行った。その後、唐末五代は河北が混乱の地であったため、風穴延昭(ふうけつ えんしょう)の代には宗勢はふるわなくなっていた。
北宋代に入って臨済宗は再び勢力を盛り返す。石霜楚円(せきそうそえん)の門下から、臨済宗の主流2派を開いた傑出の僧が出た。すなわち「黄龍派」の黄龍慧南(おうりょうえなん)と、「楊岐派」の楊岐方会(ようぎほうえ)であり、2派は中国全土を席巻した。
南宋代に入ると、楊岐派の圜悟克勤(えんご こくごん)の弟子、大慧宗杲(だいえ そうこう)が浙江省で「大慧派」を開き、臨済宗の主流となった。
曹洞宗の宏智正覚と禅法をめぐり対立し、正覚の坐禅を「黙照禅」と批判したのは宗杲である。

日本の臨済宗

臨済宗のベースとなる禅宗の教え(「宗門」という)では、達磨によってインドから中国に伝えられた、とされる。臨済宗自体は、鎌倉時代の日本に、宋に渡った栄西らによって伝えられた。このことから、日本の臨済宗は中国の禅ではなく日本の禅の一派であると考えられる。
臨済宗は当時の武家政権に支持され、政治や文化にも取り入れられた。その後、江戸時代に臨済宗が再建されるが、白隠による再建であったため、現在の臨済禅は白隠禅ともいわれる。
室町時代には、幕府によって保護や管理され、五山十刹(幕府が臨済宗のお寺から選び、決めた寺格)が生まれた。
【悟りの世界】
日本では、絵や、茶の湯、生け花など、禅の悟りの境地はさまざまな形で表現されている。悟りとは何かを言葉で定義することはできなくとも、さまざまな形で触れることができる。

臨済宗の特徴

師から弟子への教え(悟り)の伝達、以心伝心を重んじる(法嗣)。臨済宗では、釈迦を「本師釈迦如来大和尚」、達磨を「初祖菩提達磨大師」、臨済を「宗祖臨済大師」と呼ぶ。
【法嗣】
「ほうし」または「はつす(禅宗以外では「はっす」)」と読み、師匠の教えを受け継いだ人のこと。禅では伝統として現在に至るまで法嗣が代々いる。
師匠と弟子のやりとりは、師と一対一で、師の室内において秘密裡に行われ、外に持ち出されることはない。それら、祖師との対話の記録である禅語録から抜き出しまとめたものを公案と言う。公案には、弟子が悟りを得る瞬間やそのきっかけの話が多い。
公案は、宋代からさまざまな集成が編まれてきた。が、公案のほとんどが無理会話(むりえわ)つまり理屈では解けない。なぜなら悟りは言葉では伝えられるものではないからで、公案は悟りに導くヒントの記録と考えられる。例えば有名な公案に「両手を打ち合わせれば音が鳴る。では、片手ではどんな音が鳴ったか報告しなさい」というのがある。これは、答えのない問題を出して問題と解答という二元論を超越させること、また聴こえるはずのない音を聞こうとすることで聴覚をとぎすましさまざまな音を聞くこと、音のない音を感じることなどが発見できる問いのようである。

スタイルの変化

唐代、臨済を初めとする祖師たちには威厳があったが、禅創立時から典籍が増え続けるにともなって、宋代以降はテキスト(禅語録など)を使った老師による講義にスタイルが変わっていった(看話禅)。
師匠が死ぬときは跡継ぎを選ぶが、必ずしも悟りを開いている者とは限らない(悟りを開いているかどうかは、師匠とその弟子のみ知る)。悟りを開いていた師匠の時代から数世代間ならば、世代を越えて弟子が悟りを開いてもよいとされる。これから去る師匠は、複数の弟子を師匠として残して行くこともあれば、師匠を残さないこともある。師匠を残さなければ、いくつもの支流に分かれる。7世紀から続く禅は、そうしていくつか残った流れが現在まで伝わっているものである。
【悟り】
禅宗で重んじるのは悟りであり、悟りとは、生命が本来持っている本性である仏性に気付くことである。
唐代の祖師たちの悟りは苦闘の末のものであった。
宋代になって、悟りを得るためのメソッドがさまざま考案された。
禅師の元で、坐禅、公案、読経、作務(日常の作業)などを行うことによって悟りが開かれるとされてきた。
禅師が指導して悟らせるのではなく以心伝心ゆえに、悟りを開いた師の中でも自分の個性に適合した師を選ぶのが肝心である。
だが、仏陀が師を持たずに悟りを開いたように、唐代の祖師たちも人から教わって悟ったのではなく、自らの苦闘により悟った。

公案と悟り

宋代、公案体系がまとめられ、擬似的な悟りが可能になり、宗門は隆盛して多くの禅僧を輩出した。
公案は理屈では解けず、弟子を導くメソッド集としてまとめたのが公案体系であり、家風によって異なる500?1900の公案が知られている。

宗派

建仁寺派 ……1202年、宋から帰国した栄西が開く。日本臨済宗の開祖(禅の伝統を最初に日本に伝えたのも栄西であり、天台密教葉上流も始めた。禅的な文化の1つである喫茶の習慣も日本に伝えた)。大本山は建仁寺(京都)。
東福寺派……1236年、宋から帰国した円爾(鎌倉中期に活躍。駿河出身)が開く。本山は東福寺(京都)。戦国時代、毛利家の外交僧となり大名にもなった安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)はこの東福寺派。
建長寺派 ……1253年、鎌倉時代、北条時頼に宋から招かれた蘭渓道隆(らんけい どうりゅう。臨済宗大覚派の祖)により始まる。本山として鎌倉の建長寺を開山。
円覚寺派……1282年 中国から招かれた無学祖元(むがく そげん。無学派の祖。日本に帰化)により鎌倉で始まる。本山として円覚寺を開山。円覚寺は、無学祖元から高峰顕日(こうほうけんにち。後嵯峨天皇の第二王子)・夢窓疎石(むそう そせき)へと続き、一時期は日本の禅の中心となる。明治以降、今北洪川(いまきた こうぜん。元儒学者。幕末・明治時代)・釈宗演(しゃく そうえん。明治・大正時代)・朝比奈宗源(あさひな そうげん。昭和期日本)が代表的な僧にいる。鈴木大拙(すずき だいせつ。禅を英語で西洋に広く紹介した)は、今北と釈の両師の元、在家の居士として参禅していた。夏目漱石も釈宗演に参じている(『門』に描かれている)。
南禅寺派 ……1291年、無関普門(むかんふもん。東福寺の円爾に参禅。亀山上皇の離宮に出没した妖怪降伏((ごうぶく))の功で南禅寺第1世となる)が開く。京都南禅寺が本山。
国泰寺派……1300年頃、慈雲妙意(じうんみょうい)が二上山に立てた草庵により始まる。総本山は国泰寺(師事した普化宗の解体などにより衰退して臨済宗相国寺派に統合されたが、1905年に国泰寺派として独立。明治時代の武士・山岡鉄舟が再興に尽力)。東京の谷中にある全生庵は鉄舟開基で国泰寺派の名刹である。
大徳寺派 ……1315年、宗峰妙超(しゅうほう みょうちょう)により始まる。京都大徳寺に本山を開く。応仁の乱で荒廃したが、一休さんで有名な一休宗純(いっきゅうそうじゅん)が復興した。
向嶽寺派……甲斐国塩山(山梨県)にある向嶽寺(こうがくじ)を拠点とする。向嶽寺派は抜隊得勝(ばっすい とくしょう)の遺戒による厳格な戒律が特徴であり、独自の宗風で、武家政権と結び付いた夢窓派(後醍醐天皇,足利尊氏らの帰依をうけた夢窓疎石の一大門流)と一線を引いた。抜隊により始まり、1380年に守護武田氏の庇護を得て塩山に向嶽庵(向嶽寺)を築いた宗派である。
妙心寺派……1337年、関山慧玄(かんざん えげん)により始まる。京都の妙心寺を本山とする 。塔頭寺院(個別の寺院)には、桂春院・春光院・退蔵院・隣華院などがある。臨済宗最大の宗派でその末寺は3,400あまりである。
天龍寺派……1339年、夢窓疎石(むそう そせき)が始める。嵐山の天龍寺が本山。
永源寺派……1361年 寂室元光(じゃくしつげんこう)が始める。本山として滋賀県に永源寺を開山。滋賀県を中心に約150の末寺がある。明治13年までは東福寺派に属していた。寂室元光は、世俗から離れ黒衣の平僧として生涯を過ごした。
方広寺派……1384年、無文元選(むもん げんせん。父は後醍醐天皇)により始まる。本山は静岡県の方広寺。末寺は静岡県を中心に約170ある。明治37年まで、南禅寺派に属していた。
相国寺派……1392年、夢窓疎石が始める。本山である京都の相国寺は足利義満が建立した。日本各地に約100の末寺がある。金閣寺として知られる鹿苑寺、銀閣寺として知られる慈照寺はこの相国寺派に属する。
佛通寺派……1397年、愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう)により始まる。本山として広島県の佛通寺を開山。広島県内を中心に約50の末寺がある。明治38年まで天竜寺派に属していた。
興聖寺派……1603年、虚応円耳(こおうえんに)により始まる。京都の興聖寺(こうしょうじ)が本山である。

《ら~わ》の心霊知識