真霊論-細木数子

細木数子

昭和13年、東京都渋谷区円山町に8人兄妹(三男五女)の四女として生まれる。
現在、日本でもっとも有名な占い師といえば、細木数子と言っても過言ではないだろう。
毎年出版している本は数多くベストセラーを記録しており、総販売数は5300万部を超えている。
ギネスにも「世界一占いの本を売った」として掲載されている。
だが、細木はメディアでも暴言などが多く、批判の声も少なくはない。
細木の使う「六星占術」は、細木が独自に研究を積み重ねた結果、編み出したものだとされている。

占い師以前の細木数子

小学一年の頃に、父を亡くし経営していたバー「ロマンスクラブ」を、「娘茶屋」というおでん屋に変えて母と姉妹五人で営む。(後に「南海」そして「千代」になる)
細木も13歳の頃から手伝っていた。
15歳になると、成徳学園高校(現・下北沢成徳高校)に入学。
16歳にはミス渋谷に選出される。
本人曰く、「自分で応募したのではなく、店の常連客が勝手に応募していた。」という。
17歳になると高校を中退し、貯金で喫茶店「ポニー」をオープンするが、半年で売却。
1957年、その資金で新橋駅近くにクラブ「潤」をオープン。
1958年、「潤」を売却し、成城学園駅前に、子供洋服店「バンビーノ」をオープンする。
1959年、銀座にバー「かずさ」をオープン。
その後静岡の老舗の一人息子と結婚する。(後に離婚。)
1961年になると、銀座にバー「だりあ」をオープン。
「かずさ」はクラブになる。
1964年、赤坂にディスコ「大使館」をオープンする。
1965年、世田谷に自宅を新築。
1970年、赤坂にクラブ「艶歌」をオープン。
だが細木は、ここで10円の詐欺に引っ掛かり、自宅も店も全て抵当に取られる。
細木が占いに興味を持ち始めたのは、この頃に赤坂の豊川稲荷で占い師に見てもらったのがキッカケになる。
だがしかし、細木を救ったのは決して占いではなく、天才的な商才である。
本人も「占いで人は変わらない。」とメディアに豪語している。
1972年、積権者の説得に成功し、赤坂の「艶歌」を再開する。
1957年、「艶歌」が大繁盛し、借金をほぼ完済する。
そしてディスコ「マンハッタン」をオープン。
この時期細木は、「大きなゴミ袋に金を足で押し込んでも溢れるくらい」儲かっていたとよく自慢している。
1977年、彼女は当時数億円の借金を背負っていた島倉千代子の後見人となる。(暴力団「二卒会」の元相談役・堀尾が関与している。)
島倉の興行権を手に入れた細木と堀尾は、芸能プロダクション「ミュージック・オフィス」を設立。
細木は「光星龍」という名前で社長に就任した。
1981年、当時毎月数百万円ずつ借金を返済していた島倉はこの年、借金を全額返済する。
と、同時期に細木に半ば強引に「コロンビア」(現・コロムビアソングス)に移籍させられる。
細木はあまり島倉の事をよく思っていなかった。
移籍後、マスコミの取材などで島倉に対しよく悪態をついていた。
1982年、「細木数子」として、占い師デビュー。
1983年細木が「先生 」と呼ぶ安岡正篤と出会う。
が、同年の12月13日死去。
享年85歳である。
細木は安岡との結婚に異常に固執していた。
が、最終的には安岡家側により阻止される。

安岡正篤との政略結婚

細木が安岡と始めて出会ったのは、1983年の3月。
10月からは病気の療養の為、高野山に移送されている。
二人が一緒だった期間はわずか7ヶ月しかないのだ。
8月29日、安岡が「結婚誓約書」を書いた。この頃から安岡家側は、細木との接触を避け始める。
10月4日、実兄の高野山大僧正・堀田真快のもとへ移される。
11月18日、安岡家側が婚姻無効の申し立てを行い、細木はそれに対して異議を申し立てた。
その後、実に6年以上もの間、細木と安岡家の戦いは終わらなかった。
最終的には細木が籍を抜く事で決着となった。
細木は何故そこまで結婚にこだわっていたかというと、細木にとって「陰陽学の大家」というビッグネームに嫁ぐということは、自分の「格」を上げる大チャンスだったのだ。
その本意を見抜いたからこそ安岡家側は細木を嫌っていたのだろう。
実際に細木は、自著で再三安岡の名前を語り、大いにハク付けに利用している。
神楽坂の5丁目にあった「細木事務所」。
一階の案内板には、「財団法人安岡正篤顕彰記念 細木数子事務所」としっかりと書かれていたのも確認されている。
読んで解るように、細木が執着していたのは安岡本人ではなく、結婚だ。
安岡の死。
何か違和感を感じないだろうか?

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