仏教とは、インドの小国で産まれたカピラ城の王子であられた釈尊が、生老病死の四苦について悩み続け、妻子を城に置いて、修行にでられ、肉体を痛みつけるだけの修行では悟れないのだと、菩提樹の下で座禅を組み、すべての苦しみを超越するひとつの答えをみつけたのである。
釈尊は人々のために悟ろうとしたわけでなく、自分自身の苦しみを解決したいがために修行をしていたのである。それで、梵天という神さまが、人々のために釈尊に教えを説いてほしいとなんども頼み、そして、はじめは気が乗らなかった釈尊であったが、ようやく心を決めて人々に教えを説いてまわる生涯がはじまったとされている。
膨大な仏教のお経のすべてが、釈尊ひとりのものではないということは、さまざまな研究者が語っている。釈尊がこの世におられたときは、哲学や宗教的な教えというものは、文字にしてはいけないというきまりのようなものがあり、釈尊が入滅後、二百年ほどたってから、書き記されるようになった。ちなみに、釈尊が没後、百年間くらいまでは、原始仏教といわれている。
その後、百年後あたりから、保守派と革新派が分かれ、保守派の人たちは出家して、家族やもろもろのものを捨てて修行にはげむべきものとする南伝仏教、革新派の人たちはすべての生き物を救済してこその教えではないかとする大乗仏教とに分かれていったのである。
法華経や阿弥陀経などは大乗仏教の代表的なお経である。大乗仏教は、釈尊が説いた教えではなく、後世の弟子たちが新たに説いたお経であるという説もあったが、今日、仏教研究が進み、かならずしも大乗仏教が釈尊以外の者が説いた教えであるともいえず、釈尊が初期に説いた教えだともされ、いまだに釈然としていない。
仏教は、インドからチベット、中国へと伝わり、朝鮮を経て、日本へとやってきた。
釈尊の説いた仏教は、インドでは信仰されている人は少なく、日本において開花したようである。インドで釈尊は、ひとつの教えを説いた一派として、日本においての日蓮上人や親鸞上人よりも格下の扱いをうけているのだ。
世界の宗教人口も、キリスト教が約三十二%、イスラム教が約二十%、インドの主要宗教であるヒンドゥー教が約十二%、仏教は六%である。
釈尊の教えがそのままに教え伝えられる正法の時代が過ぎ、釈尊が禁じていた超能力的なものや、仏像などが本格的につくられてきた像法の時代。そして鎌倉時代の頃からは末法の時代といわれ、釈尊の説いた教えが滅ぶ時代であるとされている。釈尊はすでにそうした時代になることを予見されていたようだ。たとえば、「月蔵経」や「金光明経」に、世界の滅びのような光景が記されている。キリスト教の、「黙示録」だけが世界の行く末を記しているわけではないのである。
大涅槃経には釈尊が、「私がこの世を離れたあと、自ずからを光とし、法を光とせよ」と言われている。人に頼るだけでなく、自分自身の心に内在している仏性を光とすることが、釈尊の、最後の本音だったのであろう。また、釈尊はほかにもこう話されている。「私は無上の悟りにたどりつく道を指し示すことはできる。しかし、その道を歩むのは、ひとりひとりの足をもっていかねばならない。私の説いた教えは、私が悟ったことの一部にすぎないのだ」と。
これらのことは、信仰のことだけでなく、学業や仕事、人生の指針となりうるものだと思われる。人から学び、組織から学び、そしていつかは独り立ちをして、自ずからを光とし、己を信じ、試行錯誤、模索しながらも、自分だけの人生を送らねばならない。そうでなければ、それぞれに「個性」異なる考えや感性をもたらされた意味がないのである。
涅槃経を要約すると、邪説に依ることなく、正しい説にしたがうべく、正邪の分別が大事である。「己に仏性あり、必ず悟られる」ということは妄語戒を犯すものではない。ただし、「仏性があるから、私はすでに無上の悟りを得た」といえば、教団追放の罪となる。
仏教の究極の目的は悟って成仏することである。二度と輪廻転生しない境地に到ることなのである。仏教は、なにものにもとらわれないことを説いている。とらわれないことにとらわれてもいけないと教えている。中道の道をいき、すべてに執着することがなくなれば、さまざまな苦悩から解脱できるのだという教えなのである。
釈尊は、ご自分の悟ったことの一部しか語っていないと晩年お話になっていたとお経に記されています。「私は解脱に向かう道しるべを指し示すことはできる。しかし、あなたたちは法とあなた自身を頼りにして歩まねばならない」と。
悟りのひとつは、すべてのものは、究極的にはひとつなのだということ。このすべての存在を創られたものからさまざまな星や大地、空、すべての命が生まれた。人も猫も犬も、小さな虫、植物、岩や石、すべては究極的にはひとつに帰結する。ユングの学説である、潜在意識のなかの民族意識や超意識というもの。その意識にふれることですべての人たちの心を知り、共有できるということ。さまざまな動物たちの心とも共有できるということ。すべてはもともとひとつから分裂して個々のものとなってきたからであるのだ。
人の障りや運命を肩代わりできたり、人の悲しみにふれておなじ気持ちになることも、テレパシーのように以心伝心できるのも、もともとはひとつであったからなのである。ただ種から育った花の如く、根は茎や葉のことを詳しくは知り得ない。根は根の生き方や考え方があり、葉には葉の生き方、考え方があるのである。それが個性というものであろう。そして個性をもちながらも、ひとつの花の命としてたがいに共有し、協力しあわなければ生きていけないもの。
解脱するための方法を釈尊は、正しい見方、信心、意志、決意、言葉遣い、体の行為、生活、努力、意識、心の安定にあるとしている。
体外離脱した人たちが高くまた深い世界にたどりついて、その世界のことを語っている。どの方にも共通していることは、精神体になると感情の揺れがなくなり、感情的にならなくなる、ただ幸せに気持ちで満たされるという。そして、高く深い世界に進むたびに、すべてのものがひとつに帰結していくのだそうです。個々のものひとつひとつがひとつのものに集約されてひとつの世界を創りあげていることがわかってくるのだそうだ。
悟りとはすべてがひとつの存在である。すべてがひとつのものに帰結、集結しうるもの。そのことを心の奥深く実感し、また受け入れ、そして共有することであろう。