真霊論-祟り-祟り神

祟り-祟り神

祟りとは、何かしらの原因・因果により、霊的なエネルギーの恨みを買ってしまい、その結果として、不幸や災難・厄災などに遭遇させられることである。
祟る存在としては、アニミズムにおいては、自然界を守護する自然霊たちであり、神道においては、八百万の神々であった。
その後、平安時代以降は後述する「御霊信仰」により、死者の人魂・生霊(生きている人間の恨み)も祟ると信じられるようになった。
祟りは、因果を作った一個人にのみ降りかかることがほとんどであるが、その因果を作った家系、もしくは一族に未来永劫に渡り降りかかることもあるとされる。
また、特定の人間に対してではなく、大なり小なりのエリアや、特定の家屋や池などの場所・スポット等にも、祟りのエネルギーが滞留するとも言われている。
祟りによって被る現象としては、死に至るような病気・事故、あるいは精神的に廃人化してしまうような何かしらの体験、経済的に破滅させられるような事象、一家離散等の家庭の崩壊、その他に天変地異や疫病など社会的な不利益も祟りのひとつとすることもある。  

御霊信仰と祟り

「死者の霊は祟る」という考え方は、平安時代の貴族たちによって本格的な信じられるようになった。
これを「御霊信仰」と呼ぶ。
ただしこの「御霊信仰」が想定する死者とは、主に当時の天皇継承者・皇族関係者・政治家、後の武家・武士などいわゆる権力者たちである。
市井の人々の死までを含むものではなかったのである。
ではなぜ「死者の霊は祟る」と考えるようになったのか。
その背景には、二つの大きな要因がある。
ひとつは、飛鳥朝廷以降に端を発した、権力を巡るさまざまな骨肉の争いだ。
現代社会では考えられないような、親族間での権力・利益を巡る不条理な殺し合いが、公然と行われてきた時代である。
多くの無念の死は当然ながら、「祟りをもって無念を果たす(=怨霊)」という強い動機になることを貴族たちは考えたのであろう。
一方でもうひとつの要因とは、さまざまな「疫病の蔓延」である。
医学がまだまだ進歩していなかった過去においては、「疫病の蔓延」こそ、祟りの証左となったのである。
そこで権力者たちの無念の死に際しては、鎮魂の儀式を行い、必要に応じて官位を贈るなどして、権力者の魂が怨霊化するのを防ごうとした。
これが「御霊信仰」である。
この「御霊信仰」によって、当時の貴族社会での需要が急上昇し、めきめきと頭角を現したのが、陰陽師、密教僧、修験道者、道教の道師など「霊力」、「呪術」、「祭祀」を司れる能力者たちであった。

代表的な御霊信仰の例

御霊信仰の代表的な例としては、京都の「上下御霊神社」に祀られる神々である。
これらはすべて元権力者たちの霊である。
「八所御霊」とされる上御霊神社の、崇道天皇(早良親王。光仁天皇の皇子)、井上皇后(井上内親王。光仁天皇の皇后) 、他戸親王(光仁天皇の皇子)、藤原大夫人(藤原吉子、伊予親王の母)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文屋宮田麻呂) 、火雷神(菅原道真)、吉備大臣(吉備真備)。
他に伊予親王、観察使(藤原仲成もしくは藤原広嗣)、崇徳上皇・藤原頼長(宇治の悪左府)、安徳天皇、後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇などである。
中でも「崇徳上皇の祟り」が有名である。
1156年の「保元の乱」によって失脚した崇徳上皇は、讃岐の地に流されそこで生涯を終えた。
安元2年(1176年)に、建春門院・高松院・六条院・九条院が相次いで死去し後白河天皇に近い人々が相次いで死去したことで、崇徳天皇の怨霊が意識され始めた。
その怨念は皇族たちの間では、明治時代まで恐れられていた、とされている。
また怨念の祟りは、都(京都)に対して大火災や疫病をもたらせたとされる。

祟りスポット

心霊スポットが霊現象や怪現象の起こる場所であるのに対し、「祟りスポット」とは、その場所を訪れることで、何かしらの不幸や災難・厄災などに遭遇する可能性が高いとされる場所のことである。
ここではあえて具体例は挙げないが、インターネットではさまざまな「祟りスポット」の例と体験霊等が語られている。
さて、こうした祟りと多いに関係するのは、人間の「思い込みの力」である。
「御霊信仰」の背景にも、これは存在していたのである。
つまり「死に追いやって申し訳ない」という気持ちと、「罰を受けても仕方が無い」といった思い込みの力が、その後の体験を「怨霊のせい」にしてしまうというものである。
同様に、「この場所に行けば何かしらの祟りがある」という思い込みが、その後の偶然的な体験までも尾ひれを付けて、祟りにしてしまうのである。
もちろん、「本当の祟り」は世界中のシャーマンたちが指摘するように「存在する」のであろう。
そしてそれは多くの場合、人間が自分の利益のみを考えたエゴによって行動する際に発生する、と考えられている。
従って、興味本位で祟りスポットなどへ出向くことは控えるべきであろうし、何よりも、エゴをコントロールする精神力を養うべきなのである。

祟りと霊感商法

祟りは、霊感商法において最も頻繁に使われる「商売道具」であることも忘れてはいけないだろう。
じつは「御霊信仰」の背景にも、すでに霊感商法があったとも言われている。
祟りを口実に祈祷等を行えば、貴族から謝礼が出る。
これに味をしめた祈祷師たちが、ありもしない「怨霊」を多数捏造したのである。
怨霊信仰そのものはほぼ形骸化したが、現代においてもこの霊感商法だけは、しっかりと引き継がれているといわざるを得ない。
祟りを口実とした捏造の怨霊に対する祈祷料などで、高額請求をしてくるような商法とは絶対に付き合ってはいけないのである。

祟り神

「祟り神」とは、敵にすれば強力な祟りの力を発揮する恐ろしい存在だが、手厚く祀りあげることで、一転、強力な守護神となると信仰される神々のことである。
「祟り神」という信仰は、平安時代以降に盛んになった「御霊信仰」(ごりょうしんこう)から派生したものである。
「御霊信仰」とは、「怨霊」を祀りあげることでその荒御霊(あらみたま)を鎮め、守護等を祈願する対象である「御霊」に転じてもらおうと信仰するものである。
平安時代などにおいては、有力者の死や疫病や飢饉の蔓延、天災、火事等の原因を、政変や陰謀などによって非業の死を遂げた皇族や政治家、有力者等の無念の思いが霊力となって災いを起こす「怨霊のせいである」と考えたからである。
こうして「怨霊」から「御霊」へと転じたものがすなわち、「祟り神」なのである。
従って「祟り神」には、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)のような神話的な存在もいるが、「菅原道真⇒天満天神」のように、かつて人間だった人々の霊であることが多い。

●有名な「祟り神」伝承
■平将門(たいらのまさかど、生年不詳-940年)

平安時代中期の豪族。晒し首にされたことで怨霊となったとされる。
その後「神田明神」に祀られ、江戸時代には「神田明神」すなわち平将門は、江戸総鎮守、産土神(うぶすながみ:生まれた土地を守護する神)とされ重視された。
■菅原道真(すがわらのみちざね 845年-903年)
平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。
政治的な闘争により太宰府に配流され、加えて長男高視を初め、子供4人も流刑に処された(昌泰の変)ことで不遇のうちに死んだ後、怨霊となったと伝承される。
その後、「太宰府天満宮」に祀られ天満天神として信仰の対象となる。
現在は学問の神として親しまれている。

■崇徳天皇(すとくてんのう、1119年-1164年)
日本の第75代天皇(在位1123年 - 1142年)。
弟である第77代後白河天皇を擁護する武将らとの権力闘争「保元の乱」に敗れた後、讃岐(香川県)へ配流され、軟禁生活を余儀なくされる。
軟禁生活で仏教への信仰心が目覚めた崇徳天皇は、五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)の写本作りに専念した。
「戦死者の供養と反省の証」としてこれらの写本を朝廷に送り「京都の寺に収めて欲しい」と請願をする。
しかし後白河天皇は「呪詛が仕掛けてある」と、これを拒否し、崇徳天皇は怒り心頭に達したとされる。
そして舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込んだとされている。
こうして「怨霊」となった「崇徳天皇の祟り」は、皇族間においては、昭和天皇の代まで恐れられているのである。
昭和天皇は1964年の東京オリンピック開催に際して、香川県坂出市の「崇徳天皇陵」に勅使を遣わし、崇徳天皇式年祭を執り行わせたとされている。

《た~と》の心霊知識