真霊論-美輪明宏

美輪明宏

美輪明宏(本名:丸山明宏)は、日本のシンガーソングライター、俳優、タレントである。中性的な容貌や奇抜なファッション、独特の立ち振る舞いや語り口が特徴で、五十年以上にわたって芸能界のなかで特異なポジションに位置し続けている。近年では真っ黄色に染め上げられた髪の毛がトレードマークでもある。
また、テレビ番組『オーラの泉』出演をきっかけに、江原啓之との交友などスピリチュアルな事象への造詣の深さでも知られる。2000年代のスピリチュアルブームにおいては、細木数子と並んでその立役者だといえた。

歌手・俳優・タレントとしての美輪明宏

美輪は1935年5月15日、長崎県長崎市で五人兄弟の次男として生まれた。そのころ、美輪の父親は遊郭街で『世界』という名のカフェを経営しており、家庭は裕福だったという。
しかし戦時下に突入すると、カフェは敵性文化であるという判断から閉店を余儀なくされてしまう。以後、父親は金融業に転身するが、長崎への原爆投下を受けて貸付先の破産や他界が相次いだため、多くの資金が回収不能となる。その結果、戦後の丸山一家は一転して極貧生活を強いられることとなる。
そうした貧しい生活のなかでも、父の文化的素養の高さを受け継いだか、美輪は映画や音楽などに惹かれて育つ。また、周囲に笑われても頑なに自分の好むファッションを身にまとった。好きなものへのこだわりと、体制的・常識的なものへの反発は、美輪が現在まで常に持ち続けてきたものである。
映画で見た加賀美一朗のボーイソプラノに衝撃を受けた美輪は、声楽とピアノのレッスンを受けるようになる。やがて、オペラ歌手を夢見て、高校進学と同時に15歳で上京する。結局、家庭の事情でほどなくして高校は中退するが、新宿駅で寝泊まりする暮らしを続けながらも、歌手への夢を捨てることはなかった。
そしてついに1952年、銀座の有名なシャンソン喫茶『銀巴里』との専属歌手契約を結ぶ。その中世的なルックスから、国籍も年齢も性別も一切不詳の歌手として売り出すと(当時は本名の丸山明宏名義)、次第に人気を博すようになった。
この時代に、三島由紀夫や吉行淳之介、野坂昭如、大江健三郎、寺山修司といった文豪たちと出会い懇意になったことはよく知られている。なかでも三島とは、その自決まで非常に深い交流を持ち続ける。三島の死去のおり、美輪は一気に髪の毛が白髪だらけになったという。
そんな三島が「天上界の美」と絶賛した美輪の美貌は、1957年に発表したレコード「メケ・メケ」によってついに日の目を浴びることとなる。ジョー・ダッサンが歌ったフランスのシャンソンを日本語でカバーしたこの曲は大いにヒットした。元禄時代の小姓を模した奇抜でユニセックスなファッションは、マスコミから「神武以来の美少年」、「シスターボーイ」と評される。
しかし、あまりに大胆かつ奇抜すぎたことで、彼のブームはわずか一年ほどで沈静化することになる。歌唱力や表現力を評価されるよりも、色物として見られることのほうが多すぎた。また、週刊誌において同性愛者であることを公表したことも世間を驚かせた。いわゆるオカマタレントがテレビに大勢出ている現在と異なり、当時の日本においては、同性愛者は奇異の目でしか見られなかったのである。
以後十年近く不遇の時代が続き、おまけに原爆の後遺症にも悩まされたりと、公私ともども苦しい日々をおくった。
ようやく一線へと返り咲くのは、1966年、「ヨイトマケの唄」がヒットしてからだった。
1967年には寺山修司の劇団天井桟敷旗揚げ公演に主演。俳優としてのキャリアもスタートする。なかでも三島が戯曲化した江戸川乱歩の『黒蜥蜴』は、現在にいたるまでライフワークとなっている。1970年からはTBSラジオで「ラジオ身の上相談」を25年間担当するなど、活動の幅も広げる。
現在の芸名・美輪明宏に改名したのは1971年のことだった。読経をしているとき、ふいに『美輪』の文字が浮かんだという。姓名判断をしてみると完全無欠な画数であったため、「神様がくださった名前だ」として、改名を決意したのだった。
以後も活発な活動を続けるが、1978年ごろより慢性気管支炎を発症。体調は次第に悪化し、激しい咳が続いたことで肋骨を折ったことまであった。健康上の理由から、美輪は1985年の『大典礼』を最後にしばらく舞台から遠ざかることになる。だが、自身が舞台に立つことはできなくとも、演出家として東京芸術劇場のこけら落とし公演『マリー・ローランサン』を手がけたり等、美輪の表現活動はとどまることを知らなかった。
1990年、自身のルーツであり、長年歌い続けてきた銀巴里が閉店。その最終営業日の「さよならコンサート」では、涙ながらに自身作詞作曲の「いとしの銀巴里」を歌い上げ、話題になる。ちょうど時期的に、映画『黒蜥蜴』がニューヨークでヒットしたことも重なり、このころからテレビやCMへの出演が再び増えはじめる。美輪はここからの時期を「メケメケ、よいとまけ、黒蜥蜴に続く四回目のブーム」と表現している。
1993年、24年ぶりに『黒蜥蜴』を再演し、8年ぶりに舞台に立つ。これ以降、美輪の舞台はほぼすべて、演出から美術から衣装から選曲にいたるまで、美輪自身が担当することになる。1997年『双頭の鷲』では読売演劇大賞優秀賞を受賞。宮崎駿のアニメ映画『もののけ姫』では声優として重要な役も務め、東京スポーツ映画大賞助演男優賞を受賞するなど、現在も幅広い分野で活動を続ける。

スピリチュアルブームの火付け役としての美輪明宏

2005年4月、テレビ朝日でトーク番組『オーラの泉』の放映が開始される。
この番組内で美輪は「愛の伝道師」を名乗り、スピリチュアルカウンセラーの江原啓之とともにゲストの素顔に迫っていった。霊視等の霊的現象は江原によるものであったが、身の上相談で鳴らしたその穏やかながらも毅然とした美輪の語り口は、ゲストの本音を引き出すことに大いに貢献したといえる。スピリチュアルブームの文脈でこの番組に言及するとき、江原と美輪のどちらか一方ではなく、常に二人がセットで登場してくることが、どちらが欠けてもこの番組が成り立たなかっただろうことを証明している。
『オーラの泉』は、最初の半年間は深夜の30分番組だったが、好評を受け、10月からは放送時間が1時間に拡大される。23時台という時間帯にもかかわらず、平均視聴率は12%以上という人気を博す。
2007年4月、ついにゴールデンタイムへと昇格すると、日本全国に本格的なスピリチュアルブームを巻き起こした。同時期に人気を博した細木数子による強烈な口調とは正反対の荘厳さをもっていたことも、好対照となり、ブームを牽引した要因だろう。
このころ、多くのバラエティ番組において当番組のパロディコーナーが誕生したことは、そのブームの大きさを物語っているといえる。
一方で、霊やオーラといった非科学的な事象をテレビで大々的に扱うことに関しては、多方面から批判も寄せられた。全国霊感商法対策弁護士連絡会は、霊感商法による被害を拡大させる危険性があるとして、名指しに近い形でこの番組をやり玉に挙げている。
この件を受け、番組の最後に『「前世」、「守護霊」は現在の科学で証明されたものではありません。人生をよりよく生きる、ひとつのヒントです』というテロップを表示するようになるなど、人気になりすぎてしまったがゆえの問題もあった。

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