ノストラダムスは、ルネサンス後期のフランスの医師であり、詩人であった。
また、この時代の知識人の多くがそうであったように、ノストラダムスの活動もさまざまなジャンルにまたがっており、料理研究家や占星術師(なお、ノストラダムス本人は「Astrophile」=「愛星家」という肩書きを名乗っていた)としての活動をおこなっていたことでも知られる。
日本においては、なによりも予言者として名を馳せており、ノストラダムスという名を聞けば誰もが予言集のことを想起するであろう。
現在では、ノストラダムスにまつわる逸話や経歴などに、多分に「伝説」や「創作」が混在していることから、ノストラダムスという存在そのものがひとつのオカルト的なカテゴリーだと捉えることも可能である。
ノストラダムス(本名:ミシェル・ド・ノートルダム)は、1503年にプロヴァンスの商人・ジョーム・ド・ノートルダムの長男として生を受けた。
知識人としての人生は、生まれてまもなくスタートする。
幼少期より医学、数学、天文学、占星術、ギリシャ語、ラテン語などさまざまな分野について英才教育を施されたとされている。
成長すると、アヴィニョン大学では自由七科の、モンペリエ大学では医学の専門教育を受けた。在学中には、コペルニクスを20年以上も先取りして地動説についての詳細な解説をするなど、きわめて卓越した知能と知識をもっていたという。
もっとも、ノストラダムスの教育に関する逸話は、いずれも正確な資料が残されているわけではなく、裏付けがないものばかりである。「伝説」の類だと捉えることが妥当なケースがほとんどである。実際には、科目どころか大学名さえ、状況証拠から推察されているだけに過ぎない。
ただし、そうした逸話があるということは、秀才であったことは間違いないと考えられるだろう。
1520年、ペストの大流行によりフランス各地の大学が講義を停止する。このため、ノストラダムスは大学での研究を中断することを余儀なくされてしまうが、結果的にはこのことが医師としての転機となった。学ぶ場所を奪われたノストラダムスは、薬草の知識を得るため各地を転々とすることになるのである。
放浪生活は約30年間つづいた。その間、ノストラダムスは何度か結婚もしていたり、一時的に足取りが途絶えたりなどもしている。
この放浪生活の経験を生かし、のちに再びペストが流行した際には、率先して治療にあたっている。当時ペストはたいへんな難病であり、経験を積んだ医者でさえ敬遠することが多かったが、そんななか、病気をおそれず果敢に流行地まで乗り込んで治療に手を尽くしたノストラダムスは、医師の鏡であったといってよいだろう。
なお、この時期にも、未来のローマ教皇を予言したという「伝説」が残っている。やはり信憑性のあるものではないが、誇張されて語られることは偉人の証明である。
ミシェル・ノストラダムスというラテン語風の名を名乗るのは、著述活動を本格的にはじめた1550年ごろからだったと考えられている。
占星術を用いて翌年のできごとについて予言した『暦書』のシリーズは、1550年以来、一部の年を除いて毎年刊行され、毎年大ベストセラーとなった。これでノストラダムスはその名声を確固たるものとする。
ほかにも本来の専門であった医学や料理研究など多分野で著作を続々発表するなど、1566年、63歳で病にたおれるまで、ノストラダムスはフランス国民の注目を浴びつづけた。
なかでも、1555年の『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』(Les Propheties de M. Michel Nostradamus)は大きな話題をあつめた。一躍ノストラダムスを時の人にした代表作だといえる。この著書は王族や有力者などからも高い評価を受け、1564年には、国王シャルル9世から常任侍医兼顧問に任命されるほどだった。晩年には、占星術師として貴族たちの相談にのることで生活をしていたようである。
なお、ノストラダムスはユダヤ人であると紹介されることがしばしばあるが、これは厳密には誤りである。祖先はたしかにユダヤ人であったが、父方の祖父の代に改宗がおこなわれているためである。祖父や父と同じく、ノストラダムス自身もキリスト教徒であった。
これは、「ユダヤ教を信仰する人々」というユダヤ人の定義に当てはまらず、ユダヤ人と呼ぶことは正確さに欠ける。
しかしながら、ノストラダムスのキリスト教信仰の姿勢にも明確な答えが出ていないのが現状である。著書などからはカトリック教徒であることが示唆されているが、プロテスタントについてもけっして否定的には捉えていなかったようであることが、知人とのやりとりのなかで見受けられるからである。
一部の研究者は、ノストラダムスはキリスト教徒としてきわめて異端者であったのではないかという仮説をとっているほどである。
このように、当時も後世においてもともに有名であるにもかかわらず、ノストラダムスの経歴にはまだまだ未解明の部分が多く、その生涯は依然として謎に包まれている。
多岐にわたる活動を俯瞰的に眺めてみるうえでも、ここで代表的な著作について解説しておきたい。
なお、複数の言語に精通していたノストラダムスは、私信では一貫してラテン語を用いていたが、著作に関しては一部の例外を除きすべてフランス語で執筆されていることに要注意である。
▼1540年『オルス・アポロ』
ヒエログリフの注釈書の主著者・ホラポロの著作を翻訳したもの。韻文形式で訳すという斬新さがあり、一部のホラポロ研究者たちからも注目された。
▼1550年~1567年『暦書』
毎年刊行され毎年大ベストセラーとなった予言書。占星術によって翌年一年のできごとを予測したものである。占い師の著作が毎年のように発表されて毎年のようにヒットするという現象は近年でも馴染みの深いものといえ、理解しやすい流行であるかもしれない。
▼1555年『化粧品とジャム論』
医師としての側面と料理研究家としての側面があらわれた著作。二部構成の前半では、放浪経験から薬品類の処方について書いており、一方後半では菓子類のレシピ紹介となっている。これは、フランス人による最初のジャムの製法指南書といわれる。各国語に翻訳されるなど、人気の高い作品であった。
▼1555年『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』
後世まで大きな影響を与えた、散文詩による代表的予言集。詳細は後述。
▼1566年『王太后への書簡』
王太后カトリーヌ・ド・メディシスに捧げられた書簡。前述のとおり、晩年のノストラダムスは王族や有力者たちに占星術師として助言を与えていたが、そのなかでも最も代表的なものである。
ノストラダムスの影響力の大きさは、「ノストラダムス現象」(le phenomene nostradamus, le phenomene nostradamique)と呼ばれた。これは、その人気面もさることながら、その著作からもたらされたさまざまな議論や解釈、ブームについても含まれる。
同時代はもちろんのこと、現代にいたるまで、幾度にもわたって、断続的にこの現象はつづいているといえる。
一般に、ノストラダムス現象は次のような三つの時代に大別されて説明される。ことが多い。
▼敵対者たちの時代
ノストラダムスの存命中には、数多くの賞賛が挙がる一方で、批判の声もあった。なかには、中傷だとしか呼べないものまであった。いわれなき非難を浴びることもまた、人気者の宿命といえよう。
ここで批判の俎上にあがったのは、『暦書』類である。批判派の代表格としては、出版業者として有名だったコンラッド・バディウスや、神学者のウィリアム・フルクなどが挙げられる。
▼詐欺師たちの時代
17世紀になると、ノストラダムス本人の偽物および、弟子を騙る者などがつぎつぎと現れた。ノストラダムス二世、アントワーヌ・クレスパン、フィリップ・ノストラダムスなどが有名だ。なかには、本物のノストラダムスの著作をそのまま盗用して発表するだけの者までいた。
彼らはいずれも本物とはまったくの無関係な人物であったが、自らのことを棚に上げてほかの偽物たちを糾弾することまであった。
また、平凡な商人の一家でしかなかったノストラダムスを、さも特別な血筋の人間であるかのごとく家系図まで捏造して伝説を創作する者たちもいた。これもノストラダムス現象のひとつといえよう。
この分野は、それぞれの創作がいずれもよくできており、かつ一定以上浸透してしまっているがために、専門的に研究している者まで存在する。
▼解釈者たちの時代
現在にいたるまで続いているのはこの時代である。
代表的な著作である『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』は、きわめて解釈に幅のある予言であった。このことから、その解釈をめぐって議論が交わされ、ときにマスメディアが扇情的に終末論を煽ることなどもあった。詳細は後述する。
一般的に、「ノストラダムスの大予言」として知られている予言集の原典がこれである。
1555年初版のこの著作は、おもに四行詩集の体裁をとっている。その抽象度の高さもあって、解釈に幅が出ているため、議論が今日も続いているのである。また、度重なる改訂版も出版されているため、なおさらその解釈は多様化している。
本文は三つのセクションにわかれており、百の詩編と二つの序文と、死語追加されたいくつかの詩集とが収録されている。なかでも、第一序文「セザールへの手紙」と第二序文「アンリ2世への手紙」は有名だろう。この序文の部分も予言であるとして、さまざまな解釈を生んでいる。
ただし、こうした解釈論は、「ノストラダムス現象」の項で述べたとおり、後世になってからのものである。同時代においては、遥か数百年後の終末論よりも近未来を予言した『暦書』のほうが脚光を浴びていたのである。
20世紀に入り、いよいよ終末論が身近になってくると、ようやく大きな注目を集めるようになったのだった。
日本においてノストラダムスの予言が注目されたのは、1973年、五島勉が『ノストラダムスの大予言』を祥伝社から刊行したのがきっかけである。最も有名な、「1999年7月に人類が滅亡する」という解釈を紹介したことにより、終末論が注目を浴びつつあった世相にマッチして大ベストセラーとなった。文部省推薦の映画まで制作されたほどの加熱ぶりだった。
その後一時はブームが落ち着いたが、1999年が近づくにつれ再燃し、各メディアで特集が組まれた。五島も、結局1998年まで、ノストラダムス関連書だけで10作もの著作を発表している。
なお、五島の本については創作の部分も多く、必ずしも「解釈書」にはなっていないとの批判もある。このブームがノストラダムスの知名度を上げたことは間違いないが、むしろノストラダムスへの誤解を広げてしまっただけなのもまた事実である。
これは海外におけるほかの解釈書についてもいえることである。詩をばらばらに分解し、断片的に強引な解釈をするような手法が多く、それでは詩の体裁をとっていることの意味がないと批判する者もいる。
教養ある大半の人間は、娯楽としてこの予言を楽しんではいても心から信じ込んでいたわけではなかったが、一部には妄信的になり、1999年には本気で悲観する人々もいた。
反対に、一時のブームが激しすぎたがゆえに、ひどくノストラダムスを敬遠している人々もいる。
オカルトマニアが好んで取り上げているだけならともかく、マスメディアがいたずらに危機感を煽ってしまったことは強く反省しなければならないだろう。
こうした事情もあり、従来はノストラダムスの予言書はオカルト書として好事家がもてはやすだけのものであった。
しかし現代になってようやく、詩集としての文学的評価も再検討されるようになっている。
現在のところその評価はまださだまっておらず、毀誉褒貶が激しいものとなっているが、それは、技術面をおもに評価対象とするべきなのかモチーフを見るべきなのかがわかれるためである。
最大のブームであった1999年を過ぎてからは、ノストラダムスの予言についての狂騒は鎮静化した気配もある。だが、この予言集自体は3797年までの予言をおさめているとされており、今後も定期的に流行する可能性は充分にあるだろう。
そもそも、本人が存命でない以上、解釈論に正解は出ない。いくらでも扇情的な解釈をして人々を煽る余地はあるのである。
娯楽としてオカルトを楽しむ分にはよいが、真に受けすぎるのは危険だ。たとえば、1980年代からの日本での新興宗教ブームには、五島によるノストラダムスブームの影響が小さくないと分析する社会学者も多い。
いつか再びノストラダムスの予言が脚光を浴びるときがきたとしても、楽しむべきところは楽しみ、静観すべきところは静観するという冷静な対処が求められるだろう。
ノストラダムスが「2012年に起こる出来事に関して警告を発信している」とする説がある。
この説が生まれたきっかけは、1982年にロベルト・ピノッティという人物が、ローマ国立図書館で奇妙な一冊の古書を発見したことにあった。
この古書は80点ほどの水彩画で構成されており、数少ない文字資料のページの冒頭には
「バティティーナ・ミケェーリー・ノストラダミー」とノストラダムスの本名が綴られていたのである。
そこでこの古書は、ノストラダムスが絵によって残した預言書であろうと、研究者による分析が始まったのである。
その後研究者たちは、その絵の中に、「1981年ローマ教皇暗殺未遂事件」、「2001年9.11同時テロ」などを象徴した絵などを発見する。
そして7枚の絵が連作になっており、それらが「2012年に地球に危機が来ることを警告している」と分析したのである。
●「ノストラダムスの2012年預言説」の信憑性
今回の預言説があまり日本を含む世界であまり話題になっていないのは、すでに1999年での預言が何事も無く終わっているから、という訳だけではない様だ。
つまり、この一連の絵を「預言」とするのには「かなり無理がある」、と考えられているのである。
まず第一に、今回発見された古書には、一切の文字データがないのである。
もしせめて絵に、ノストラダムスの定番とも言える4行詩でもあれば、信憑性は少しはあったかもしれない。
また、ノストラダムスには画家としての活動歴はない。
これらの点に関して研究者たちは、「これらの絵はノストラダムスの友人の画家、ライオネル・リムセンによって描かれたものであり、絵だけにしたのはより的確に警告内容を表現するため」としている。
しかし、絵はいくつかの象徴が記されただけのものという、多分にストーリー性の欠落した絵たちである。
ちなみに、研究者たちが「2001年9.11同時テロの象徴」とする絵は、ひとつの四角い建物が描かれており、そこから炎が出ているという絵である。
事件はツインタワーで起こったのだから、せめて2つの建物が描かれていれば、まだ、こじ付けられたかもしれない。
いずれにせよ、すべての絵には「年月日」や「数字」を暗示するものは一切無いのである。
もし仮にすべての絵が預言だったとしても、「それがいつ起こるのか」は、絵を見た者が「推測」するしかないのである。
この「時期の明示の欠落」という点は、預言を目的とした書としては、決定的に信憑性を欠くものと言わざるを得ないであろう。
ただし、「いずれ人類に起こるであろう出来事を描いた絵」と考えることはできるかもしれない。
●2012年に何が起こるのか
研究者たちは7枚の絵を連作として、その7枚によって「2012年の冬に地球に危機が訪れると警告されている」としている。
しかし前述のように、どの絵にも年数に該当するデータはない。
したがって、2012年というのは研究者たちの推測に過ぎない。
ではその根拠は何かというと、1枚の絵に描かれた「三つの三日月模様」だけである。
この三つの三日月は、三つの太陽現象を指していると分析し、それが金環日食、皆既日食金星の日面通過であるとする。
この3つが起こるのは珍しく、2012年にはこの3つの現象が起こるから、この絵は2012年を示していると分析されているのである。
この分析にはかなり無理がある。
なぜなら他の絵には太陽が描かれているものもある。
もし、この三つの三日月が太陽現象を意味するのであれば、なぜ太陽を描かずに、三日月という月を描いたのか。
あるいはもし三日月を「皆既日食」の象徴とするなら、それはわからなくもない。
しかし今度は2012年には3回の皆既日食は無いため、つじつまが合わない。
そして肝心の「何が起こるのか」の具体的な内容に関しては、この預言は一切語っていないのである。
なんとかしてこの一連の絵を「ノストラダムスの2012年預言にしよう」という作為が随所に感じられるのだが、そもそも「起こる時期も不明、何が起こるのかも不明」では、預言書とは到底呼ぶ事はできない。
ただし、人類のあり方・生き方を問う「古の預言者からのミステリアスな警告書」としてであれば、一見の価値のある古書ということになるのであろう。