「人形には霊が宿る」考え方、もしくは、その証拠となるような現象の報告は実際にある。
多くの場合は、人形を使っていた人の「念」が残ると考えられるが、中には、人形制作者の念が宿るとする場合もある。
人形供養をする寺院等では、「僧侶の手で魂抜きをしお焚き上げしないと、人形の御霊が地獄へ堕ち、持ち主にもいいことは無い」などと主張している。
「人形には霊が宿る」という考え方が一般的に普及したのは、奇現象として日本全国に知れ渡った「髪が伸び続けるお菊人形」の話の影響が大きいと思われる。
まずはこの「お菊人形」について触れておこう。
お菊人形は北海道、栗沢町万字にある「萬念寺」に実在する「市松人形」と呼ばれる日本人形である。
その人形の持ち主が菊子(当時3歳)という女の子だった。
菊子の元へ人形がやって来た時は、おかっぱ頭の人形だった。
しかし菊子がかわいがっている間に、人形の髪は肩位まで伸びたという。
その後、菊子が亡くなり、「萬念寺」に預けられてからも、髪は伸び続けた。
そして腰のあたりまで伸びた段階で、以降は伸びるのを止めているそうだ。
これが「髪が伸び続けるお菊人形」の話である。
じつはこの有名な話には、改ざんの痕跡があることで知られている。
このお菊人形のエピソードは、北海道放送の馬淵豊記者によって1962年の『週刊女性自身』8月6日号に初投稿されている。
ところがこの最初の投稿では、人形の持ち主だった女の子は菊子ではなく「清子」だった。
それが1968年の『ヤングレディ』(7月15日号・投稿者は同じく馬淵豊記者)になると「菊子」と変わり、それが現在まで残っている。
長なるのでここでは割愛するが、それ以外にもお菊人形にまつわるエピソードには、いくつかの改ざんの跡がある。
エピソードに改ざんがある以上、「元はおかっぱの頭だった」という部分が疑わしいことも忘れてはいけないであろう。
では、「元はおかっぱの頭の人形だった」ということが事実だったと仮定しよう。
そうなると、お菊人形は何かしらの理由で、髪が本当に伸びたことになる。
この髪が伸びた現象に関しては、いくつかの解明説がある。
例えば、当時の「市松人形」(お菊人形は大正時代のものとされる)は人毛が使われていたことが知られているため、何かしらの栄養分を何かしらの原因により人形の髪が吸収して伸びたのだろう、と言う説。
あるいは、当時の人形の髪は、1本の長い髪を折りたたんで短くして使っていたため、年月と共にその結び目が解けて、長い状態に戻ったため、伸びてしまったように見えるのだとする説、などもあった。
しかし、もし「おかっぱ」であったことが本当なら、腰までの長さを説明するには根拠不足である。
この場合、髪を成長させた何かしらの霊的、もしくは生命エネルギーが人形に宿った可能性は否定できなくなる。
ただし、髪が伸びるのを止めた時点で、そのエネルギーも消滅してしまったのかもしれない。
以下に挙げるのは「人形と霊体験」の実体験エピソードである。
●旅行先で買ったバリ人形
バリ島旅行の際、引き寄せられるように買った、木彫りの人形。
奇妙なことが起こったのは、自宅にその人形を飾ったその日の夜のこと。
深夜2時頃、カタ、カタタ、カタカタ……という妙な音で私は目を覚ました。
音は、木彫りの人形を飾ったリビングの方からしている。
リビングのドアを開けた途端、その音はしなくなりましたが、何か異様な空気が張り詰めていた。
翌日、夢の中で木彫りの人形は踊っていた。
ガムランのような音楽がけたたましく鳴り響き、強烈な頭痛と吐き気を感じ、私は目を覚ました。
それから毎晩、その夢を見るようになった。
恐くなってこの人形を押し入れにしまったところ夢は見なくなった。
●娘と人形の会話
5歳になる娘が主人の姉の子ども時代の人形をもらった。
娘は楽しそうに着せ替えをしていたが、この前偶然人形に話しかけているのを聞いてしまった。
娘は、人形の髪を撫でつけながら「今日はいっぱい遊んであげたでしょう? だからもう夢に出てこないでね」と言っていた。
私がどうしてそんなことを言うのか? と聞いたところ、娘は、夢に毎日人形が出てきて、寝ている自分を起こして遊ぶようにせがむ、と言う。
嫌だと言うのがとても怖い気がして、いつも人形の言いなりになっているのだそう。
人形供養とは、雛人形、市松人形、五月人形、こけし、その他愛用していたぬいぐるみなどを
寺社仏閣へ奉納し、拝火にて供養してもらうことである。
これは日本独特のものであり、海外、特に一神教(キリスト教、イスラム教など)文化圏内には存在しないものである。
例外として、一部アジア地域の密教系信仰(ブータンなど)では、念仏を唱えながら法具で人形を壊し、祈願成就をするという修行があるが、大衆的に人形供養が行われているのは日本のみと言って良いだろう。
■人形供養の発祥、歴史
【人形供養の発祥】
人形供養という発想の直接の引き金になった風習は「雛祭り」と「流しびな」だと推測される。
雛祭りは、現在では女児の成長を祝う祭りであるが、かつては男女関係なく行われていた。この起源は平安時代の貴族にさかのぼる。雛祭りは子女の人形遊びを絢爛豪華にしたものであった。
また、流しびなとは、紙などで人形(ひとがた)を作り、自分の持つ因縁や厄を書き込んで海や川に流し、厄落としをするという民俗信仰である。
この二つの習慣が合わさり、「人形を飾ると幼い子どもの身代わりとなって厄災から守ってくれる、そのお役目を果たした人形は丁重に供養しよう」という習慣が生まれたと思われる。
その他、神道の根底にあるアニミズムの「生きとしいけるもの全てには精霊が内包されている」という思想も、人形供養に深く影響を与えている。
特に、人間のミニチュアとも言える人形には、まるで人と同じように魂が宿ると考えられていた。よく知られているものには、髪の毛が伸びる人形などが挙げられる。
そのため、人間の葬儀に似た形の供養をしてあげようという気持ちが自然と湧き上がってきたのだろう。
子どもの厄災防止という観点から見ると、近代以前の生育環境も関係しているだろう。
古代から近代にかけては、栄養失調や疫病などで乳幼児が死亡することは当たり前であった。そのため、7、8歳くらいまでは「完全な人間とみなされない、神様から魂を預かっている期間」などと考え、当時の住民票などにも名前の記載が行われなかった。七五三を超えると、晴れて一人前の人間として扱われたのだ。
過酷な環境の中、子の成長は前述した風習などで強く祈願された。それが叶えられた暁には、いわゆる生贄の変わりとして、人形を捧げたのだった。
【人形供養の歴史】
一番古い人形供養の文献が残っているのは室町時代末期である。
千葉県にある長福寿寺には、
「17代住職の元に、信仰心の厚い祖母を持っていた娘が来て、自分や、身近な人の子どもへ、祖母か作った人形が沢山ある。祖母は亡くなったが、子どもらが成長した後、残された人形をそのまま捨てるのは偲びないので法要を行って欲しい、との申し出があった。
住職は持ち込まれた人形を3ヶ月間供養した。すると人形が笑顔になり成仏した」
と言う話が残っている。
その後、江戸時代には人形供養も一般的な風俗の一環として定着していった。
特に、子どもの成長と密に関わる風俗であるため、子宝や安産祈願にご利益のある寺社で盛んに行われる傾向にある。
ただ、現在のように寺社仏閣へ奉納を推奨する、というような形になったのは戦後である。
これは、戦後の檀家離れによって収入源が減少した寺社の、新たなビジネスというきらいもある。奉納の際は良き信仰に基づいて行っているところを選びたい。