春は出会いの季節である。
この春から新しい生活をはじめるという読者も多いかもしれない。
一方で、出会いの陰には別れもある。
新生活を迎えるということは、従来の生活環境をまったく真新しいものへと刷新するということなのである。人間関係も生活パターンも変わるだろうし、住居を引っ越す必要があるならば、古い持ち物を整理する必要もあるだろう。
また、あえて意図的に古い自分をリセットし、新しい環境をつくりたいと考える人もあるかもしれない。
ここ数年は「断捨離」という言葉も流行している。環境が心身に影響をあたえるというこの考えかたは、たしかにスピリチュアルの観点から見ても合理的である。
「そうありたい」と思う自分の姿を具現化することで、心身はその環境に引っ張られるからだ。「ありたい自分であろうとすること」がスピリチュアルの根本であるということは、このブログでも繰り返し解説してきた。
しかし、巷で人気の断捨離ではあるが、そのフレーズだけが一人歩きして話題を呼んでしまっているという側面は否定できない。そのため、誤解も多い。
断捨離とは、ただ単になんでも切り捨ててしまえばよいというものではない。
物質そのものを手放すのではなく、物質への執着心をなくすことこそが、本来の断捨離なのである。
思い出や未練が残っているにもかかわらず無理をして捨ててしまうのでは、精神的にネガティブな影響しかあたえないであろう。
古くより日本では、万物に霊や魂が宿っているとされてきた。執着心が残っているにもかかわらず捨てたのでは、持ち主にとっても捨てられたほうにとっても、ともに不幸な結果しか招かない。
未練を残さず、心から満足して物質を捨てることのほうが、スピリチュアル的には健全なのである。
奇しくも今年の春で、あの甚大な被害を出した東日本大震災から1年が経過することにもなる。
覚えておくべきことはしっかりと心に刻んだうえで、新しい一歩を踏み出すために過去と訣別する必要もある。
今回は、新生活を迎えるにあたって、環境を一新するための心がまえを紹介してみたい。
そもそも断捨離とは?
「断捨離」という言葉が頻繁に話題にのぼるようになったのは、2010年からのことだ。
これはもともと、クラターコンサルタントのやましたひでこが提唱したものである。
やましたは、早稲田大学在学中からヨガ道場に通っていたという。
そのなかで、「断行」(=入ってくる不要なものを絶つこと)、「捨行」(=家にずっとある不要なものを捨てること)、「離行」(=物質への執着から離れること)というヨガの行法哲学と出会ったのであった。
これを日常生活へと応用し、生活思想へと昇華させたのが、現在巷で用いられている「断捨離」の思想である。
やましたは2001年から「断捨離セミナー」を主宰し、地道に断捨離思想を広めてきた。
やがて2010年、NHKの情報ドキュメンタリー番組『クローズアップ現代』で断捨離がピックアップされると、ついに一躍時の人となったのだった。
以後、断捨離は一大ムーブメントとなり、やましたが断捨離について著した書籍は、『新・片づけ術 断捨離』(マガジンハウス)や『ようこそ断捨離へ』(宝島社)などをはじめとして、総計で200万部以上の売上をみせている。
断捨離が話題を呼ぶ背景
この断捨離思想が大きな反響を得たことは、日本独特の文化と無関係ではないだろう。
まず、前述のように、日本人はすべてのものに魂が宿ると考えてきた。そのため、一見不要なように見えるものであっても、なにかのときのために保管しておきたいという考えかたが染みついている。
ノーベル平和賞受賞者であるワンガリ・マータイも感銘を受けた「MOTTAINAI(もったいない)」という言葉には、こうした古来からの日本人の考えかたが如実に表れているといえよう。
一方で、過去にもこの国では、考現学者の辰巳渚による『「捨てる!」技術』(宝島社)や、経済学者の野口悠紀雄による『「超」整理法』シリーズ(中央公論新社)が大ベストセラーとなっている。
「捨てる」ことが重視されるようになったのは、なにも最近のことではない。
これは、日本の住宅事情と密接に関連しているといえよう。欧米からは「犬小屋のよう」だと揶揄されるような狭い集合住宅に住む日本人にとって、持ちものを整理し取捨選択することは、快適な日常生活をおくるために必須の能力だといえる。
「捨ててはいけない」という思想を遺伝子レベルで受け継ぐ一方で、「捨てたい」と日々思い悩みながら生きているのが日本人なのだ。
いわば、正しい捨てかたを身につけることは、日本人に共通する民族的な命題だった。
だからこそ、断捨離の思想は斬新だったわけである。
断捨離では、合理的に捨てることの意義を説き、かつ、それによる精神的なメリットも掲げられている。精神的に健全になれるのであれば、捨てることに対する罪悪感を取り除くことも可能となる。
こうして、心理的に躊躇することなく物質を捨てられるようになる仕組みだ。
断捨離への大きな誤解
なお、やました本人は、「断捨離は片づけ術ではない」と主張していることに注意したい。
あくまでも、物質への執着を捨て、心身ともにストレスから解放されることが断捨離なのだとしている。ただ捨てるだけでは駄目なのだ。
むしろ、不要なものを捨て去ることで、本当に自分にとって価値のあるものが浮かび上がるのだとされる。必要なものだけをそばにおいて生きることこそが、人間にとってのあるべき姿なのだというわけだ。
つまり、断捨離という言葉の簡潔さゆえに、これは非常に即物的かつ合理主義的な思想であると考えられがちだが、実際には非常にスピリチュアル的な考えかたとの親和性が高いものなのだ。
「断捨離」というフレーズばかりが注目されることで、現状では、この言葉そのものに執着する人々まで現れてきてしまっている。だが、これでは「断捨離のための断捨離」になってしまっており、逆効果といわざるをえないだろう。
それでは、言葉に振り回されているだけだ。
供養のすすめ ~執着心を捨て去るために
反対にいえば、本当にむずかしいのは、物を捨てることよりも執着を捨てることのほうなのである。
ただ捨てるだけならば、どれほど大切にしていたものであろうとも、勢いで捨ててしまうこともできるだろう。
しかしながら、勢いだけで手放したものは、その後いつまでも絶えず後悔をもちつづけることになりかねない。
前項を読めばわかるとおり、これでは本来の断捨離からは正反対の行為となってしまう。
そこで、後顧の憂いなく執着心へ別れを告げるためには、供養が有効だろう。
有名なところでは人形供養が挙げられる。
人形は、人間をかたどっているという性質上、ほかの物質よりもよけいに強い霊が宿っているとされる。愛着も湧きやすいため、そうした思念が霊となって宿ることもあるだろう。
人形は保管しようにも場所をとるものであり、引っ越しの際などには持っていくことを躊躇するものだ。だが、なかなか捨てにくいというのも頷ける。
こうしたとき、人形供養が重要になるのである。
インターネットで検索をしてみれば、人形供養を請け負っている神社・仏閣が日本中にあることがわかるはずだ。
ほかにも、手紙や写真などは人間の思念がこもりやすいため、やはり捨てることが躊躇われるものであろう。
これらについても、人形供養ほどではないが、根気よく探せば供養に適した神社・仏閣が見つかるはずだ。
然るべき場所で然るべき供養をすれば、執着心も罪悪感もきれいに消えるだろう。
重要なのは、心に無理をさせないこと
合理主義的な側面に共感して断捨離に興味をもった人からすれば、供養などは馬鹿馬鹿しい行為だと思われるかもしれない。
だが、その深淵までをしっかりと理解すれば、この両者がそう遠くはない思想であることがわかるだろう。
どちらも、心を整理するという点では同じなのである。
どうしても捨てられないものを無理に捨てることはないし、心に尋ねてみて捨てるべきだと思うのであれば、思い出の品であっても処分すればよい。
ただ、最も重要なのは、心に無理をさせないということだ。極端な我慢をさせず、心のありたいままに従うこと。より幸福な生活をおくるための原則は不変である。
表面的な言葉に流されることなく、自分に正直に生きることが、なによりの幸福への近道であるのだと覚えておきたい。