長かった冬も、もうじき終わろうとしている。
春のおとずれを告げるイベントといえば、花見である。
古くより、桜の花は日本人にとって特別なものだと考えられてきた。日本人ならば誰しも一度は花見をしたことがあるだろう。日本中にある桜の名所では、多くの花見客や、それに負けないぐらいの出店が出る。
また、企業の花見においては、新人の最初の仕事として場所取りが命じられることも風物詩となっている。
花見はこのように、個人・法人を問わず、季節のうつろいを感じ取るための一大イベントなのである。
しかしながら、この花見というイベントを、単なる自然を愛でる行為や、宴会の口実だと思っては大間違いだ。
もちろん上記のような側面もあることは否定できないが、これだけ娯楽の種類が豊富な現代である。わざわざビニールシートを敷いて寒空の下で酒を飲まなくても、もっと健康にも財布にもやさしい娯楽はいくらでも存在する。テレビゲームの普及によって外で遊ぶ子どもが少なくなったように、花見客が日本中から減少してもおかしくないはずである。
にもかかわらず、花見という文化が廃れることがないのはなぜなのだろうか。
ここには、桜の花のもつスピリチュアル的なエネルギーが関連しているのである。
人々は、花を見るためでも、ましてや酒を飲むためでもなく花見をしている。そこに桜の木があり、桜の花が咲いているという事実そのものがなにより重要なのだ。
古くより、「桜は人を狂わせる」ともいわれる。桜に不思議な力があることは、古来から多くの日本人が共通してもっていた感覚なのだといえる。
今回は、有名な花見のスポットの紹介を交えつつ、桜の花のもつ真の力について迫っていきたい。
桜のもつイメージ
桜といえば春の象徴である。
転じて、それは同時に、新しい生活に向けた希望の象徴でもある。日本においては年度のはじまりが春となっていることもあり、人生の転機に桜が登場する場合が多い。多くの学校の敷地内にも桜の花が植えられている。
また、受験の合格/不合格を「桜咲く/桜散る」と表現することは有名だ。
しかしそれ以上に、日本人の精神的な象徴だという側面もある。
これは、桜を愛でる気持ちもさることながら、その儚さにこそ主眼がおかれている。なにせ、厳しい冬を越えてやっと咲かせた花であるにもかかわらず、わずか2週間たらずで散ってしまうのである。
この潔さは武士道にも通ずるとして、日本人の精神性をあらわしているのだとされる。だからこそ、日本人は桜を好むのだとという説も強い。
事実、とある調査によれば、日本人の8割が桜を「とても好き」だと答えているという。
日本人の桜への親密さとして特筆すべきは、開花予測だろう。花見シーズンともなれば、天気予報のなかで桜の開花予測がなされるし、インターネットで検索すれば、全国各地の名所の見ごろを一覧できるウェブサイトがいくつも見つかる。
われわれはこのことに慣れきってしまっているが、海外から見れば日本のこうした文化はとても風流なものとして映るのである。
日本人と桜のかかわり
花見という文化のはじまりは、奈良時代だとされる。
もっとも、このころの花見は現在のものとは大きく異なる。
まず、花見は一般大衆が興じるようなものではなく、あくまでも貴族だけに許された贅沢な娯楽だった。
また、なによりの違いは、奈良時代に花見の対象だった花は、梅の花だったことである。
この傾向が変わったのは平安時代のことだった。
人気の花が梅から桜へとうつったのである。これは、『万葉集』では桜について詠んだ歌より梅について詠んだ歌のほうが二倍以上あったことに対し、『古今和歌集』では逆転していることからも窺える。
やがて江戸時代に入ると、徳川将軍が江戸の各地に桜の植樹をはじめる。これにより、選ばれた人々の娯楽でしかなかった花見が、ついに庶民にも広まっていくこととなった。
桜の木の下で酒を飲み歌を歌うといった花見のスタイルは、このころから早々に確立されていたものである。
以来、桜はずっと日本人にとって特別な花として愛されてきた。
法的な規定はないものの、実質的に日本の国花としての役割を負っており、公的なさまざまな場面において桜の紋章が用いられてきたのである。現在も警察や自衛隊の紋章に桜が見られる。階級章も、海外のほとんどの国家では星形が使われるところを、桜の花びらの形であらわされる。
文学作品やポピュラー音楽においても、桜をモチーフとした作品は非常に多い。
多かれ少なかれ誰もが、桜に日本のイメージを重ね合わせているのである。
桜の花に生命の循環を見る
花見という文化が廃れることなく受け継がれてきた理由には、このような、日本人の精神性が大いに関係しているといえるだろう。
いわば、花見は自分自身のルーツに触れるような行為なのである。
桜が生と死のイメージを孕んでいることは上でも述べたが、生と死は表裏一体である。これは両方そろって生命の循環をあらわしてもいる。
人間は誰しも、自分一人だけでここに生きているのではないのだ。古来からの代々の先祖がいて、それではじめて自分も存在することができる。
桜は、無意識のうちにそうした生命の歴史も思い起こさせてくれるのだろう。
そう考えれば、花見の席で酒宴が繰り広げられる理由も理解できるのではないだろうか。
日本人は伝統的に、祭事においても弔事においても、儀式のあとは宴会をしてきた。それが、神仏の魂や霊への捧げものとなるからである。
花見には、先祖代々の霊を供養するイメージも重ねられているわけだ。
もちろん、ここでいう「先祖」とは自分の直接の先祖だけにはかぎらない。現在の日本をつくったすべての日本人たちや、その土地の記憶なども含まれる。
桜に不思議な力が宿っているとされるのも、このためだ。霊的な現象を起こすことがあるのも当然である。桜は文字どおりスピリチュアル・スポットなのだ。だから人々は桜の花を見にいこうとする。その霊的な力を浴びようと、本能的に考えるのである。
こうした認識が、日本人には無意識下で刷り込まれているといえよう。
だから、日本人は花見を途絶えさせはしない。ただ美しいからでも、ただ騒ぎたいからでもなく、花見はつづいていく。
スピリチュアル・スポットとしての花見の名所
このように、花見の意義をあらためて確認すると、より霊的なエネルギーの強い桜を見にいきたいと考えるかもしれない。
そこで、この場では、桜の木の本数や美しさといった観点からではなく、エネルギーの強さからいくつかの花見スポットをおすすめしてみたい。
◎日本五大桜
日本五大桜は、1922年(大正11年)10月に国によって天然記念物に指定された、5か所の桜のことである。
これらは、質・量・歴史といずれの観点からみても花見に適した桜であるといえる。
また、名所であるゆえに、歴史上多くの人々が訪れた場所でもある。人が多くあつまるところには、おのずとエネルギーも多くあつまることになる。
日本五大桜ほどスピリチュアル・エネルギーの神秘を感じ取れる花見の名所は、ほかにないだろう。
・石戸蒲ザクラ(埼玉県北本市)
樹齢800年以上とされるカバザクラの古木(ヤマザクラとエドヒガンザクラの自然雑種)であり、東光寺の境内に位置している。
この種の自然雑種は、世界でこの一本のみしか存在していない。
樹高14メートル、根回り7.41メートル、幹周り6.6メートル。
・三春の滝桜(福島県田村郡三春町)
樹齢1000年を超す、ベニシダレザクラの古木である。
さまざまな桜の名所ランキングにおいて、常に1位に輝いており、正真正銘の日本一の桜だといえる。
樹高12メートル、根回り11メートル、幹周り9.5メートル。
・山高神代桜(山梨県北杜市)
実相寺の境内にあるエドヒガンザクラの老木で、樹齢は2000年以上といわれる。
伝説においては、ヤマトタケルノミコトが植えたとされている。
・狩宿の下馬ザクラ(静岡県富士宮市)
源頼朝が馬を下り、この桜につないだとされていることから命名された。
樹齢800年を優に超える日本最古級のヤマザクラである。
現在はすでに全盛期を過ぎ、だいぶ小さな木になってしまっているが、宿っているエネルギーは健在である。
・根尾谷の淡墨桜(岐阜県本巣市)
樹齢1500年以上を数えるエドヒガンザクラの古木であり、淡墨公園内に位置する。
継体天皇が自らの手で植えたとの伝承もある。
樹高は16.3メートル。
もちろん、毎年行き慣れている近所の桜で花見をしてもよい。
しかし、せっかく花見の意義を知ったのだから、たまには趣向を変えて、こうした歴史的な重みのある桜のエネルギーに触れてみてはどうだろうか。
きっと、半端なパワースポットなどよりもはるかに強大で慈しみに満ちた、神秘的なエネルギーを得られるはずである。
そして、それを糧に新しい季節をポジティブな気持ちで過ごしていくようにしたい。