よい暮らしはよい睡眠とともにある。
数回にわたって、睡眠をより価値あるものにするためのアドバイスをしてきた。
・よい睡眠のために(1) ~睡眠を見直してよい暮らしを
・よい睡眠のために(2) ~睡眠時間をより価値あるものに
・よい睡眠のために(3) ~自己暗示からつくる豊かな人生
これまでは、睡眠という行為そのもののクオリティについて、健康面やメンタル面から考えてきたが、睡眠にはもうひとつ、無意識下にはたらきかける側面もある。
そう、「夢」である。一度たりとも夢を見たことのない人間は、世界中のどこにも存在しないだろう。夢は、睡眠とは切っても切れない密接な関係にある。
そしてこの夢こそが、起きているあいだの生活と睡眠時間とをグラデーション状につなぐ重要な存在なのである。
古来より、夢は心理学・生理学・脳科学などさまざまな学術分野から重要視され、研究対象となってきた。
このことは、意識と無意識の境界で繰り広げられるストーリーに、なんらかの意味があるに違いないと人類がずっと考えつづけてきたことの証拠といえよう。
夢と現実世界は完全にリンクしているわけではないが、たしかに一定の相関関係にはあるように考えられる。誰しも、悪い夢を見た日は目覚めが悪かったり、一日気分がすぐれなかったりした経験があるだろう。反対に、良い夢を見たときはそれだけで一日気分よく過ごせることもあるかもしれない。
生活のクオリティと睡眠のクオリティは比例すると、これまで繰り返し述べてきた。
これに加えて、本当によい睡眠をとるためには、夢のクオリティも無視してはならないのである。
今回はスピリチュアルの観点から夢について考えてみよう。
いまだ謎につつまれる夢のメカニズム
人間であれば誰もが夢を見る。しかし、どうして私たちは夢を見るのだろうか。
実は、この疑問に対する明確な回答は今日まで得られていない。
すべての人間がほぼ毎日見ているにもかかわらず、夢を見るメカニズムも、夢を見る理由も、科学的にはまだ判然としない点があまりにも多すぎるのだ。
ただしそれでも、さまざまな角度から多くの仮説は提示されている。
科学的な見地からの最も説得力ある説としては、以前にもここで書いた「記憶を整理するため」というものがある。
睡眠には大きく分けて2つのサイクルがあり、浅い眠り(=レム睡眠)と深い眠り=(ノンレム睡眠)とに分類できる。このうち、夢を見るのは前者のレム睡眠時だとされる。
このとき、肉体は眠っているが脳は起きている状態なので、内外からの刺激を受けた脳が、それに関連する映像をつくりあげるのだという。
外的な刺激が夢に如実に影響をあたえるということについては、睡眠学習法について解説した際にもふれた。聴覚からの刺激はとくに顕著である。
ほかにも、夢のなかでトイレに行ったとき、現実にも尿意をもよおしていたという経験は誰しも一度はあるのではないだろうか。
一方の内的な刺激というのは、新しい記憶が反映されるケースが最も理解しやすいかと思われる。
その日見た映画のキャラクターや舞台設定が夢のなかに登場してきたり、知り合ったばかりの大して親しくもない人物が出てきたりといったパターンだ。また、昔のことを懐かしがっていたりすると、その当時の情景が登場することもある。
とくに、海外旅行にいった際、現地の言葉で夢を見るという報告は非常にポピュラーだろう。
さらに、夢で見ている内容が現実の肉体に再度反映されることも多々ある。
いわゆる寝言がそれである。熟睡しているにもかかわらず突然言葉を発したり、体を動かしたりといったことはめずらしくない。場合によっては歌を歌い出したり笑い出したりすることもある(これの重度なものがいわゆる夢遊病である)。
夢は一般的に、視覚にうったえかけるものとして現れるが、人によっては五感のほかの感覚にも刺激をあたえることがあるとされる。つまり、音が聞こえる夢もあれば、味のわかる夢もあるということだ。
やけにリアリティのある夢が現れるときは、視覚以外の感覚にもうったえかけられているのだと考えられよう。
現実を映す鏡としての夢
もちろん、夢はまったくのゼロからつくられるわけではない。
そこでつくりあげられる映像は、記憶の貯蔵庫から生成されることになる。
脳には多くの情報が詰まっている。実体験もあれば、本やテレビで見た情報もあるだろう。ただの空想もあるかもしれない。そうした無数の情報のなかから、刺激に適応した情報を選別し、夢のストーリーが紡がれるわけだ。
時として夢が荒唐無稽な展開を見せるのは、ここでの接続に強引さがあるためだと考えられる(ただし、どれほど荒唐無稽で支離滅裂な夢であろうとも、夢を見ている最中には辻褄が合っているように感じてしまうのが夢の不思議なところだ)。
結果的に、こうした脳のはたらきによって、記憶が整理されることになるのである。
この説にしたがえば、夢は単なる生理学的な休息の一種でしかないといえるだろう。
そこに過剰な意味づけをすることはオカルト的に思われるかもしれない。
とはいえ、無数の情報のなかから夢のストーリーを選んでいるのは、第三者ではない。あくまでも自分自身の脳なのである。
この点を重くみれば、夢に自分自身の感情や欲望が反映されていると考えることも、けっして無理のある話ではないはずだ。
よく知られているとおり、心理学の分野では、夢は深層心理を顕在化させたものだと定義される。また、抑圧された欲望の表象だともされる。
心理学者のジークムント・フロイトやカール・ユングによってはじめられた夢分析は、初期のころこそ学問未満だと馬鹿にされることもあったが、現在では自己分析に大いに役立つものだとして一定の評価を得ているのは周知のとおりである。
そもそも、フロイトやユングたちの生まれる遥か以前から、夢を解釈する技法は世界各地である程度体系化されていたのだという指摘もある。
たとえばユダヤ法典には、エルサレムに夢解釈を職業としている者たちまで存在していたことが書かれている。古代バビロニアにおいても夢解釈の技法が研究されていた痕跡が残っているし、また、ネイティブアメリカンのとある部族では、毎朝家族でその日見た夢の解釈をしあうことが習慣化しているともいう。
この日本においても、古くより初夢の内容(「一富士・二鷹・三茄子」)で一年の運勢を占う考えかたがあった。
夢に意味をもたせようという考えかたは、古今東西を問わず人類に通底する思想なのだといえよう。
わが国では星占いや血液型占いから動物占いまで、多くの占いが流行してきたが、夢診断は時代に左右されず常に人気をあつめてきた分野である。
フロイトやユングたちの夢分析は非常に学術性が強く、素人には応用のむずかしいものであったが、それをより一般大衆に親しみやすい形にした「夢診断」や「夢占い」として、高いポピュラリティを得るにいたった。
現在もなお、夢の解釈にまつわる書籍は数多く出版されているし、夢診断についてのウェブサイトも大量に存在する。
夢が現実を映す鏡なのだと、ほんのわずかでも信じている人は、かなり多いはずだ。
現実もまた夢の鏡となりうるか
ただ、これまでは、夢に関心をもった人々の大半は、それがどのような意味をもっているのかばかりを気にしてきたように思える。そしてその解釈に一喜一憂をしてきたのである。
これはあまり健全な行為だとはいえない。
なぜなら、最上のスピリチュアル・ヒーリングであるはずの睡眠が、時としてかえってストレスをあたえることになってしまうからだ。
よい人生のためには、ストレスは最大の敵である。ストレス解消の効能をわざわざ打ち消してしまってはもったいない。
また、睡眠はそれ自体がヒーリングであるにもかかわらず、睡眠の結果ばかりに気を奪われていては、せっかくのヒーリング効果が半減してしまうかもしれない。
睡眠に軸足をおいたままで、現実をよりよいものにしようというスタンスが重要なのだ。
睡眠の価値を高めることにこそ、重点をおくよう心がけなければならない。
ここで、逆転の発想をしてみたい。
夢が現実の鏡であるならば、その逆もまた然りである。
幸福な人生を実現するために、夢のほうをコントロールするのだ。
従来も、見たい夢を見るための方法は多くの人々に研究されてきた。そして、多くの人々から興味をもたれてもきた。
しかしながら、そのほとんどは興味本位だったはずだ。夢をコントロールする方法を心から知りたいと強く思っていた人は、さほど多くなかったのではないだろうか。
なぜなら、夢は所詮夢だと思われがちだったからだ。
たとえ夢のなかのできごとを思いどおりにできたところで人生が変わるわけではない――そう考えてはこなかっただろうか。
だが、ここまで読んできた読者ならば、もうこの古くからの考えには別れを告げているはずである。
ここでいう「コントロール」が、これまで研究されてきたものとはまったく違う目的であることに気づいてもらえるだろう。
夢のなかで実際に好きなことをするのではなく、よい人生につながるような夢を見るのが本当の目的なのである。
次回は、夢をコントロールするための、その具体的な方法について解説していきたい。